与那嶺貞

没年月日:2003/01/30
分野:, (工)

 染織家の与那嶺貞は1月30日午後3時15分、気管支肺炎のため沖縄県浦添市の病院で死去した。享年94。1909(明治42)年1月20日、沖縄県読谷に生まれ、首里女子実業学校(現・沖縄県立女子工芸学校)で染織を学んだ。その後、読谷に戻って女子補修学校の教師をしながら織物の制作を続けた。1964(昭和39)年、村の生活改良普及員を勤めていたときに村長から依頼を受け、当時ほとんど途絶えかかっていた読谷山花織の復興に取り組む。読谷山花織は、読谷村長浜を拠点として展開された南方諸国との交易により、14、15世紀頃に伝えられた織物の技法である。本来木綿を中心とし、濃紺等に染められた平織の地に、白、黄、赤、緑等の色糸を浮かせて模様を織り出すのが特徴。銭花、風車、扇花の3つを基本として30種類程度の模様があり、また絣をあわせて使うことで幾何学的な構成に表情が加わる。染料は琉球藍のほか、ティカチ(車輪梅)やヤマモモ、福木等の植物染料が主である。かつて琉球王朝の御用布として読谷村一帯で織られ、同地の住民以外、庶民には許されなかったこの歴史ある織物も、時代の推移に押されて明治中頃から衰退しはじめていた。戦後織手を失い、作品も灰燼に帰すという困難な状況ではあったが、与那嶺は、土地の古老から聞き取り調査を行い、わずかに残っていた祭り衣裳などを手がかりとして、読谷山花織の技法と文様の復元に到達した。さらに糸や道具類の調達から高機の改良に努めて伝統的な読谷山花織の技法を高度に体得、また木綿地だけでなく、絹地による制作技法の改良にも大きく貢献した。75年に沖縄県指定無形文化財「読谷山花織」の保持者に認定。後継者の育成や普及にも力を注ぎ、伝統を根底としながらも現代的な感覚を盛り込んだ作品は高い評価を呼んだ。1995(平成7)年第15回伝統文化ポーラ賞にて「読谷山花織の復興」により特賞受賞。99年6月21日重要無形文化財「読谷山花織」の保持者に認定。

出 典:『日本美術年鑑』平成16年版(296頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「与那嶺貞」が含まれます。
to page top