千野香織

没年月日:2001/12/31
分野:, (学)

 美術史家で学習院大学教授の千野香織は12月31日、心不全のため東京都目黒区の自宅で死去した。享年49。千野は1952(昭和27)年8月19日、内科医中村光甫と香壽子の長女として神奈川県横須賀市に生まれた。東京学芸大学附属世田谷小中校、同中学校を経て71年3月同附属高校を卒業。72年4月京都大学文学部に入学、76年3月文学部哲学科美学美術史学専攻を卒業。同年4月東京大学大学院人文科学研究科美術史学専修課程日本美術史専攻に入学。この年、高校の先輩で音楽家の千野秀一と結婚(82年離婚)。78年3月同大学院修士課程を修了、同年4月博士課程に進み、83年3月博士課程単位取得退学。同年5月より東京国立博物館資料部資料第一研究室研究員(文部技官研究職)。88年4月資料第二研究室へ異動。1989(平成元)年4月学習院大学に転出して文学部哲学科助教授となり、94年4月教授に昇格した。この間、92年7月より93年1月までハーバード大学客員研究員、97年4月より98年3月までコロンビア大学客員研究員となり、94年3月より99年4月まで美術史学会常任委員、97年6月より7月までハイデルベルク大学客員教授、2000年10月より01年3月までお茶の水女子大学客員教授を務めた。また、79年4月より徳川美術館研究員、99年6月より国立歴史民俗博物館運営協議委員、00年4月より国立民族学博物館客員教授、01年5月より美術史学会常任委員、01年9月より国立歴史民俗博物館第二期展示委員を務めていた。93年10月『フィクションとしての絵画』(西和夫と共著、ぺりかん社 1991年)により小泉八雲賞を受賞、02年12月大韓民国褒賞を追叙された。京都大学での千野は清水善三助教授のもとで日本美術史を学んで古代中世絵画史を専攻し、京都在住の美術史家梅津次郎の指導を受けた。平安期の屏風絵や障子絵に見られる和歌と絵画に関心をもった千野は研究成果を卒業論文「新名所絵歌合」にまとめた。東京大学大学院では秋山光和教授に師事して大和絵の研究を進め、修士論文「神護寺山水屏風の研究」を提出。視野が広く発想の柔軟な千野の研究は刮目され将来を嘱望された。東京国立博物館資料部での千野は、資料第一研究室で『ミュージアム』など同館の出版物の編集を行うかたわら、86年度より始まった「館所蔵模写・模本類による原品復元に関する調査研究」の初年度に行われた「江戸城本丸等障壁画に関する調査研究」、87年度「古画類聚に関する調査研究」に携わった。その成果は特別展観「江戸城障壁画の下絵-大広間・松の廊下から大奥まで-」(1988年2~3月於同館東洋館)、『調査研究報告書江戸城本丸等障壁画絵様』(東京国立博物館 1988年)、『調査研究報告書古画類聚』(同 1990年)として公表された。88年1月から『茶道の研究』誌上に建築史家西和夫との「連論」形式の連載を始めた千野は、学習院大学に転出後、92年4月美術史学会東支部例会シンポジウム「絵画史料をどう読むか―建築史と美術史の立場、そして共通の視点―」を建築史学会と共催するなど、関連領域との交流を通じて美術史学のあり方を問うようになった。さらに欧米の状況に関心を向けた千野は「アメリカ合衆国における日本美術史研究の方法論に関する研究」をテーマに掲げ、ハーバード大学客員研究員として鹿島美術財団の「美術に関する国際交流の援助(海外派遣)」により92年9月より11月まで2ヶ月半米国に滞在した。同大学ではノーマン・ブライソン「フランス絵画における物語」、ジョセフ・カーナー「美術史の方法と理論」、エヴァ・ライヤーバーカート「フェミニスト理論と現代芸術」の講義を聴講するなど、90年頃に始まるニューアートヒストリーの潮流に接した。千野自身も「日本絵画における鑑賞者の役割と物語の構造」「日本の自己規定にみる性差(ジェンダー)、立場、他者―中国/日本、男性性/女性性―」を同大学で講演した。帰国後は93年1月の美術史学会東支部例会シンポジウム「フェミニズムと美術史」において「日本美術のジェンダー」を発表。以後、日本美術史にジェンダー批評を導入した議論を展開した。93年6月には美術史家鈴木杜幾子と共同でハーバード大学のブライソン教授を招聘して学習院大学で3回のセミナーを開催。95年3月には美術史家若桑みどり等とともにイメージ&ジェンダー研究会を発足させた。さらにポストコロニアル理論に関心を広げた千野は、国立民族学博物館の吉田憲司の主宰する共同研究「近代における「異文化」像の形成」(1995~97年度)、「近代日本の「異文化」像と「自文化」像の形成」(1998~00年度)に参加して、博物館の異文化展示を研究テーマとした。01年度からは自ら代表者を務めて共同研究「「伝統」の表象とジェンダー」を進めていた。吉田との共同研究がきっかけとなり千野はしばしば韓国を訪れるようになり、批評理論に関心をもつ韓国の研究者と交流した。98年10月に梨花女子大学校で開催された国際シンポジウム「身体と美術―記号学的アプローチ」では「醜い女はなぜ描かれたか―ジェンダーとクラスの観点からの分析」を発表して大きな反響を得た。大和絵研究から出発した千野は、80年代後半から学問の細分化や枠組みの問題を取り上げるようになり、90年以後は視覚表象のもつ社会的政治的側面に関心を向けた。特に後年は、現実社会の困難を解決する実践方法を求めて研究と批評を結び付ける努力をし、多くの発言と活発な活動を行った。また教育にも熱心に取り組んだ。01年12月の美術史学会東支部特別例会シンポジウム「中学校の歴史教科書における日本文化・美術の語られかた」の開催が最後の大きな仕事となったが、千野の急逝は各方面から惜しまれた。公正を重んじる誠実で穏やかな人柄は多くの人に慕われ、「お別れの会」(02年1月14日於学習院創立百周年記念会館)には1200人以上が参列した。なお、千野の旧蔵書は02年7月に韓国ソウル市の国立中央博物館の所蔵となった。

編著書

『名宝日本の美術11信貴山縁起絵巻』小学館1982
『フィクションとしての絵画―美術史の眼 建築史の眼』ぺりかん社1991(共著)
『日本の美術301伊勢物語絵』至文堂1991
『日本美術全集12南北朝・室町の絵画Ⅰ水墨画と中世絵巻』講談社1992(共編)
『岩波日本美術の流れ3 10-13世紀の美術 王朝美の世界』岩波書店1993
『日本美術全集13南北朝・室町の絵画Ⅱ雪舟とやまと絵屏風』講談社1993(共編)
『美術とジェンダー―非対称の視線』ブリュッケ1997(共編)
『女?日本?美?―新たなジェンダー批評に向けて』慶應義塾大学出版会1999(共編)
『日本の美術416西行物語絵』至文堂2001
『岩波講座近代日本の文化史』岩波書店2001~(編集委員)

主要論文・論説

「「西行物語絵巻」の復原的考察」『仏教芸術』120、1978
「神護寺蔵「山水屏風」の構成と絵画史的位置」『美術史』106、1979
「日高川草紙絵巻にみる伝統と創造」『金鯱叢書』8、1981
「日本の絵を読む―単一固定視点をめぐって」『物語研究』2、1988
「滋賀県立近代美術館蔵・近江名所図屏風の景観年代論について」山根有三先生古稀記念会編『日本絵画史の研究』吉川弘文館1989
「春日野の名所絵」秋山光和博士古稀記念論文集刊行会編『秋山光和博士古稀記念美術史論文集』便利堂1991
「建築の内部空間と障壁画―清涼殿の障壁画に関する考察」大河直躬ほか編『日本美術全集16江戸の建築1彫刻』講談社1991
「大学院生とのセミナー報告 ノーマン・ブライソン教授と「新しい美術史学」の模索―ジェンダー・国家・セクシュアリティ」『月刊百科』376、1994
「日本美術のジェンダー」『美術史』136、1994
「女を装う男―森村泰昌「女優」論」『森村泰昌 美に至る病―女優になった私』展図録、横浜美術館、1996
「嘲笑する絵画―「男衾三郎絵巻」にみるジェンダーとクラス」伊東聖子ほか編『女と男の時空 日本女性史再考2おんなとおとこの誕生―古代から中世へ』藤原書店1996
「日本の障壁画にみるジェンダーの構造」『美術史論壇』4、1996
「支配的・権力的な「視線」の意味を問い、美術史のパラダイムチェンジをはかる」『別冊宝島』322、1997
「醜い女はなぜ描かれたか―中世の絵巻を読み解く「行為体」とジェンダー」『歴史学研究』増刊号、1999
「戦争と植民地の展示―ミュージアムの中の「日本」」栗原彬ほか編『越境する知1身体―よみがえる』東京大学出版会2000
「「伊勢物語」の絵画―「伝統」と「文化」を呼び寄せる装置」
『特別展 伊勢物語と芦屋』図録、芦屋市立美術博物館、2000
「希望を身体化する―韓国のミュージアムに見る植民地の記憶と現代美術」『神奈川大学評論』39、2001
「視覚的に歴史の隠蔽をはかる」『別冊歴史読本』87、2001
「「ナヌムの家」歴史観から、あなたへ」ナヌムの家歴史館後援会編『ナヌムの家歴史館ハンドブック』柏書房2002

なお、論著の検索には『イメージ&ジェンダー』3(02年11月)収載の亀井若菜編「千野香織さんの〈著作・論文〉一覧」がある。

出 典:『日本美術年鑑』平成14年版(252-254頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「千野香織」が含まれます。
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