緑川洋一

没年月日:2001/11/14
分野:, (写)

 写真家の緑川洋一は、11月14日胃がんのため岡山市の病院で死去した。享年86。1915(大正4)年3月4日岡山県邑久郡裳掛村(現邑久町)に横山知(さとし)として生まれる。1936(昭和11)年日本大学専門部歯科医学校卒業。37年岡山市内に横山歯科医院を開業。学生時代に写真を撮影するようになり、39年頃から緑川洋一の作家名で写真雑誌の月例懸賞に応募を始める。同年、中国写真家集団に参加。47年東京の写真グループ銀龍社に参加。53年銀龍社を母体に二科会に新設された写真部に出品、第1回二科賞を受賞。54年「植田正治緑川洋一展」(東京・松村画廊)、55年「秋山庄太郎林忠彦緑川洋一植田正治4人展」(東京・松島ギャラリー)、個展「大阪」(松島ギャラリー)開催、同年二科会写真部会員となる。57年秋山庄太郎・岩宮武二・植田正治林忠彦・堀内初太郎と「6人展」(東京・富士フォトサロン)開催。62年写真集『瀬戸内海』(美術出版社)を刊行、同書により第6回日本写真批評家協会賞作家賞、昭和37年度中国文化賞、翌年の日本写真協会賞年度賞などを受賞。78年作家名として用いてきた緑川洋一名で戸籍登録。80年代以降はカメラメーカー系ギャラリーを中心にほぼ毎年個展を開催。2001(平成13)年から翌年にかけ5会場を巡回した「光の交響詩 緑川洋一の世界」(岡山・天満屋、呉市美術館、他)が生前最後の個展となった。90年勲四等瑞宝章、第23回岡山県三木記念賞、99年日本写真協会功労賞を受賞。92年岡山市内に緑川洋一写真美術館が開設され、館長に就任する(2001年末より休館)。緑川は、中国写真家集団以来の盟友であった山陰の植田正治と同様、戦前のモダニズム写真の影響下に出発し、地方を拠点に独自の制作活動を展開した写真家であった。戦中期から50年代にかけては、瀬戸内の農漁村や塩田、大阪の商人町などをテーマとしたドキュメンタリー写真も手掛け、またヌードや群像などの人物写真にもとりくむ。59年の四ヶ月にわたる欧州11カ国歴訪を契機に、風景写真に集中するようになり、瀬戸内海をモチーフに、フィルターや多重露光などの技法を駆使した構成的なカラー作品により独自の作風を確立した。『国立公園』(中日新聞社、1967年)、『日本の山河』(矢来書院 1975年)など、日本各地の景勝地に取材した風景写真による写真集を中心に作品集・技法書・随筆集など著書は79冊に及んだ。73年以降18回に渡ってアマチュア向けの海外撮影旅行を主催、81年には全国組織の写真集団・風の会を結成、主宰するなどアマチュア写真家の指導にも熱心にとりくんだ。

出 典:『日本美術年鑑』平成14年版(249頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「緑川洋一」が含まれます。
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