秋野不矩

没年月日:2001/10/11
分野:, (日)
読み:あきのふく

 インドの大地と人物を描き続けた日本画家で文化勲章受章者の秋野不矩は10月11日午前11時27分、心不全のため京都府美山町の自宅で死去した。享年93。1908(明治41)年7月25日、静岡県磐田郡二俣町(現天竜市二俣町)の神主の家に生まれる。本名ふく。静岡県女子師範学校卒業後小学校の教師をしていたが、1927(昭和2)年19歳で画家を志し、父親の知人の紹介により帝展の日本画家で、千葉県大網町に住む石井林響に入門、住み込みの弟子となる。29年林響が脳溢血症で倒れると京都に移り、西山翠嶂の画塾青甲社に入る。30年第11回帝展に「野を帰る」が初入選、その翌年は落選するも32年から34年にかけて連続入選を果たす。32年には塾の先輩である沢宏靭と結婚、その後もうけた六人の子供を育てる傍ら身辺のモティーフを題材に制作を続け、そこで育まれたヒューマニズムは生涯貫かれることになる。36年新文展鑑査展で天竜川岸の白砂に寝そべる女と子供を描いた「砂上」が選奨、38年第2回新文展では紅の着物をまとう五人の女性を円形に構成した「紅裳」が特選を受賞し、無鑑査となるなど官展で着実に地歩を築いていく。40年には大毎東日奉祝(大阪毎日・東京日日新聞主催)日本画展覧会で夫をモデルにした「陽」が特選一席となり、43年京都市展では「兄弟」が京都市展賞を受賞。戦後48年には日展を離脱、日本画の革新を目指して創造美術の結成に参加。51年同第3回展に自分の子供をモデルとした「少年群像」を出品、同作により第1回上村松園賞を受賞する。51年創造美術は新制作派協会と合併、新制作協会日本画部となり、同会会員として同展に出品する。一方、49年京都市立美術専門学校(現京都市立芸術大学)助教授となる。62年ビスババーラティ大学(現タゴール国際大学)の客員教授として一年間インドに滞在。これを契機にそれまでの人物画からインドの自然風物、宗教に主題を求めた浄福感あふれる作品へと移行する。その後も度々インドに渡り、中近東へも足を伸ばした。74年京都市立芸術大学を退官し、同大学名誉教授となる。また同年新制作協会より独立結成された創画会の会員となる。この時期二度にわたり火災によりアトリエを失うが、80年に京都市内から同府北部の山間にある美山町に画室を移し、制作を続ける。78年京都市文化功労者、81年京都府美術工芸功労者、83年天竜市名誉市民となり、85年「秋野不矩自選展」(京都ほか)を開催、86年には毎日芸術賞を受賞した。88年第1回京都美術文化賞を受賞。1991(平成3)年に文化功労者となる。92年には画文集『バウルの歌』(筑摩書房)を出版。93年第25回日本芸術大賞受賞。98年には生地である天竜市二俣町に天竜市立秋野不矩美術館が開館。99年には文化勲章を受章。2000年のアフリカ行きが最後の海外旅行、翌年の第28回創画会出品作「アフリカの民家」が最後の出品となったが、個展準備のためインドへの取材旅行を計画していた矢先の逝去であり、最晩年に至るまでその創作意欲は衰えることがなかった。没後の03年には兵庫県立美術館ほかで大規模な回顧展「秋野不矩展―創造の軌跡」が開催されている。

出 典:『日本美術年鑑』平成14年版(245-246頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「秋野不矩」『日本美術年鑑』平成14年版(245-246頁)
例)「秋野不矩 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28233.html(閲覧日 2024-04-20)

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