川端実

没年月日:2001/06/29
分野:, (洋)

 洋画家川端実は、6月29日、東京都渋谷区の病院で老衰のため死去した。享年90。1911(明治44)年5月22日、東京市小石川区春日町に日本画家川端茂章の長男として生まれる。川端玉章は、祖父にあたる。1929(昭和4)年4月、東京美術学校油画科に入学、藤島武二に師事した。34年に同学校を卒業、36年には文展監査展に「海辺」が入選して、選奨となり、39年には光風会員となった。同年8月、渡欧の途につく。パリに入るが、第二次世界大戦の勃発により、退去命令をうけ、ニューヨークに渡る。しかし、ヨーロッパが急変する様子がないことを知り、再びフランスに戻った。その後、戦渦の拡大によりイタリアに移ったが、イタリアも参戦したことから、41年9月に帰国した。戦後の50年、多摩美術大学教授となり、52年には、光風会を辞して、新制作協会会員となった。また、51年には、第1回サンパウロ・ビエンナーレの日本代表に選出され、「キリコをつくる人」を出品した。53年には、長谷川三郎吉原治良山口長男等とともに、日本アブストラクト・アート・クラブを結成した。50年代から、具象的な表現をはなれ、ダイナミックで、構成的な抽象表現を模索しはじめていた。58年9月、渡米してニューヨークに居を移し、翌月にひらかれた第2回グッゲンハイム国際展に「リズム 茶」を出品して、個人表彰名誉賞を受賞した。また、同年、新制作協会からはなれた。61年、第31回ベェネツィア・ビエンナーレに「強烈な赤」等を出品した。戦後、欧米の美術界を席巻した抽象表現主義の影響をうけた作品となっていったが、60年代末頃より、明快な色彩とシンプルな幾何学的なフォルムによる抽象絵画に展開していった。その後、国内外での個展のほか、種々な国際展に出品した。75年には、神奈川県立近代美術館において、50年から近作にいたる作品80点、デッサン59点によって構成された回顧展が開催された。92年には、京都国立近代美術館、大原美術館において、作品59点とドローイング22点によって構成された近作を中心とする「川端実展」が開催された。70年代から80年代には、明快な色面の構成ながら、筆によるストロークの跡を画面に残しているため、暖かい抒情性をただよわせる作品を残したが、しだいに即興的でダイナミックな線による表現に展開していった。戦後の抽象絵画のなかで、いちはやく国際的な評価をうける作品を残した。

出 典:『日本美術年鑑』平成14年版(241-242頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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