上村松篁

没年月日:2001/03/11
分野:, (日)
読み:うえむらしょうこう

 花鳥画の第一人者として活躍した日本画家で文化勲章受章者の上村松篁は3月11日午前0時3分、心不全のため京都市内の病院で死去した。享年98。1902(明治35)年11月4日、京都市中京区四条御幸町西入ルに、美人画で知られた女流日本画家、上村松園の長男として生まれる。本名信太郎。画家の母のもとで幼少より画に親しむ。動物好きで花や虫、鳥を好んで描き、その後も花鳥画への道を歩むことになるが、終生貫き通す格調の高さは母譲りのものであった。1915(大正4)年京都市立美術工芸学校絵画科に入学、都路華香、西村五雲らに学び、特待生となる。21年卒業後、京都市立絵画専門学校に入学し、国画創作協会の会員で同校の助教授だった入江波光よりリアリズムの洗礼を受ける。また入学と同時に西山翠嶂の画塾に入った。21年第3回帝展に「閑庭迎秋」が初入選、以後帝展、および青甲社と名乗るようになった翠嶂画塾の塾展である青甲社展に出品し、24年第5回帝展に克明なリアリズムの描写による「椿の図」を出品する。24年京都市立絵画専門学校を卒業後、同校研究科に進み、1928(昭和3)年第9回帝展で、古典的な画題をアレンジした「蓮池群鴦図」が特選を受賞した。30年研究科を修了し、京都市立美術工芸学校講師、36年には京都市立絵画専門学校助教授となる。この間33年帝展無鑑査となり、43年第6回新文展で委員をつとめ、また36年池田遥邨徳岡神泉山口華楊らと水明会を結成した。この時期、アルタミラの洞窟壁画や古代エジプトの浮彫など、美術史上の古典をふまえた動物画や人物画を試みている。戦後47年第3回日展に再び出品、審査員も務めるが、翌48年日本画の革新を目指して東京の山本丘人吉岡堅二、京都の向井久万奥村厚一らとともに日展を離れて創造美術を結成、世界性に立脚する日本画の創造を標榜する同団体において、抒情性よりも構成的な美を志向する花鳥画を生み出していく。49年京都市立美術専門学校教授となり、翌年より京都市立美術大学助教授を兼任、53年同大学教授となった。創造美術は51年新制作派協会と合流して新制作協会日本画部となったため、以後同会に出品。56年第20回展「草月八月」、57年第21回展「桃実」などを出品し、58年第22回展出品作「星五位」により翌年芸術選奨文部大臣賞を受賞した。その後もインドや東南アジアでの熱帯花鳥写生で画嚢を肥やし、59年第23回「鷭」、60年第24回「熱帯睡蓮」、62年第26回「鳩の庭」、64年春季展「ハイビスカスとカーデナル」、65年第29回「鴛鴦」など、明るい色彩を用いた品格ある花鳥画を発表。66年第30回「樹下幽禽」により、翌67年日本芸術院賞を受賞した。68年京都市立美術大学を退官、同大名誉教授となる。同年皇居新宮殿に屏風「日本の花・日本の鳥」を描く。またこの年から翌年にかけて『サンデー毎日』に連載された井上靖の小説「額田女王」の挿絵を担当、70年近鉄奈良駅の歴史教室壁画「万葉の春」では大画面の歴史人物画に取り組んでいる。72年京都市文化功労者、73年京都府美術工芸功労者となる。74年新制作協会日本画部は同協会を離脱し創画会を結成、以後同会に出品する。81年日本芸術院会員、83年文化功労者となり、84年文化勲章を受章、同年には京都市名誉市民の称号も受けている。没後の2002(平成14)年には京都市美術館にて回顧展が開催された。作品集に『上村松篁写生集(花篇・鳥篇)』(中央公論美術出版 1973年)、素描集『上村松篁―わが身辺の鳥たち』(日本放送出版協会 1979年)、『上村松篁画集』(講談社 1981年)、現代日本画全集『上村松篁』(集英社 1982年)、『上村松篁画集』(求龍堂 1990年)、著書に『鳥語抄』(講談社 1985年)、『春花秋鳥』(日本経済新聞社 1986年)がある。長男の淳之も日本画家。

出 典:『日本美術年鑑』平成14年版(235頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「上村松篁」『日本美術年鑑』平成14年版(235頁)
例)「上村松篁 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28214.html(閲覧日 2024-04-20)

以下のデータベースにも「上村松篁」が含まれます。

外部サイトを探す
to page top