小倉遊亀

没年月日:2000/07/23
分野:, (日)
読み:おぐらゆき

 日本画家で院展同人の小倉遊亀は7月23日午後10時11分、急性呼吸不全のため東京都中央区の病院で死去した。享年105。1895(明治28)年3月1日、滋賀県大津市丸屋町(現 大津市中央1丁目)に、溝上巳之助、朝枝の長女として生まれる。本名同じ。奈良女子高等師範学校(現 奈良女子大学)国語漢文部に学びながら、図画の科目を履修。そこで横山常五郎に絵を学び、また歴史研究者の水木要太郎により古美術への関心を啓発される。1917(大正6)年同校を総代で卒業。その後京都市立第三高等小学校、19年名古屋市の椙山高等女学校、20年横浜のミッションスクール、捜真女学校(36年まで)等で教鞭をとりながら絵を独学する。20年大磯に住む安田靫彦に入門し、22年日本美術院第8回試作展に「静物」が入選。25年第12回院展に出品するも落選した「童女入浴」を、26年靫彦のすすめで小堀鞆音社中の革丙会第1回展に出品、小林古径速水御舟らの注目を受ける。26年第13回院展に「胡瓜」が初入選。この頃一時、“游亀”の号を用いている。作風としては、細密描写による写実的な姿勢がうかがえるものが多い。1928(昭和3)年第15回院展に草花を写生する少女たちを描いた「首花」を出品、院友となった。次いで29年第16回「故郷の人達」等を経て、32年女性として初の日本美術院同人となり、第19回展に「苺」を出品。一方、35年より熱海長畑山の修養道場、報恩会主宰の小林法運のもとへ通い始め、38年法運没後、その衣鉢を継いだ武田法得に師事する。また38年山岡鉄舟門下の小倉鉄樹と結婚し、神奈川県大船町の鉄樹庵に住んだ。44年鉄樹没後は京都大徳寺管長・太田晦厳に師事したが、禅の修養は作画にも大きな影響を与えた。47年には報恩会理事、50年同監事となっている。この間35年より39年まで東京府女子師範学校で教え、36年第1回改組帝展「静思」、38年第25回院展「浴女 その一」、39年第26回「浴女 その二」、42年第29回「夏の客」等を発表。日常生活のなかの女性を題材に、知的で爽快な印象を与える画面を生み出す。戦後は47年第32回院展に故郷近江の民話を題材とした「磨針峠」を出品したのち、51年第36回「娘」、52年第37回「美しき朝」と、現代的女性を明るい色彩と自由で力強いフォルムの中に描き出した。54年前年の第38回院展出品作「O夫人坐像」により第4回上村松園賞を受賞、55年には前年の第39回院展「裸婦」により芸能選奨美術部門文部大臣賞を受賞。次いで56年第41回院展「小女」により翌年第8回毎日美術賞、61年第46回院展「母子」により62年日本芸術院賞を受賞した。裸婦のシリーズとともに子供や孫といった家族を描いた作品は多くの人々に親しまれたが、他にも67年第52回「菩薩」、73年第68回「天武天皇」などの仏像・神像や、静物画・風景画にも取り組んでいる。58年日本美術院評議員、78年同理事、また76年日本芸術院会員、78年文化功労者となり、75年神奈川文化賞、79年滋賀県文化賞、80年文化勲章を受ける。1990(平成2)年日本美術院理事長に就任、96年より名誉理事長となる。92年頃より糖尿病のためしばらく絵を描くのを控え、書を試みるが、97年から年に数点のペースで再び作画活動を開始、100歳を越えてもなお制作にたずさわる姿は話題となった。回顧展は滋賀県立近代美術館をはじめとする美術館・デパートで度々開かれ、海外でも99年にパリの三越エトワールを会場に行われた。没後も2002年に「小倉遊亀展」が東京国立近代美術館・滋賀県立近代美術館で開催されている。著書に『画室の中から』(中央公論美術出版 79年)、『画室のうちそと』(読売新聞社 84年)がある。

出 典:『日本美術年鑑』平成13年版(238頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「小倉遊亀」『日本美術年鑑』平成13年版(238頁)
例)「小倉遊亀 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28191.html(閲覧日 2024-04-20)

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