渡辺義雄

没年月日:2000/07/21
分野:, (写)
読み:わたなべよしお

 写真家で文化功労者、日本写真家協会名誉会長、日本大学名誉教授の渡辺義雄は、7月21日肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去した。享年93。1907(明治40)年4月21日新潟県三条町(現 三条市)に生れる。1920(大正9)年新潟県立三条中学校の入学に際し、父から祝いとしてカメラを贈られたことをきっかけに写真を撮り始め、独学で現像・印画などの技術を習得する。25年中学を卒業し上京、小西写真専門学校(翌年に東京写真専門学校と改称。現 東京工芸大学)に入学し写真を学ぶ。1928(昭和3)年同校を卒業、オリエンタル写真工業に入社、写真部に配属され乾板のテスト撮影などを担当する。30年同社が発行していた『フォトタイムス』誌の編集主幹木村専一を中心に新興写真研究会が結成されるとこれに参加し、31年宣伝部に異動、『フォトタイムス』の編集などに従事する。同誌などを拠点に30年代に急速な盛り上がりを見せた新興写真の運動の中、同誌上に小型カメラによって都市風俗を躍動的に捉えた「カメラウヮーク」と題する組み写真のシリーズ(32年から34年にかけて6度にわたり掲載)や、初期の代表作となる「御茶の水駅」(33年1月号掲載)を発表。日本におけるグラフ・ジャーナリズムの先駆というべき前者、建築家・堀口捨巳の示唆により、幾何学性を強調することで当時の代表的なモダン建築であった御茶ノ水駅舎の造形を大胆に描写した後者などによって写真家としての評価を確立する。34年にオリエンタル写真工業を退社し、外務省の外郭団体・国際文化振興会写真部、中央工房の外郭団体・国際報道写真協会に参加、国際文化振興会の依嘱による37年のパリ万国博会出品の写真壁画「日本観光写真壁画」(構成・原弘)や、同年外務省の依嘱で木村伊兵衛らと取材した中国大陸での写真による38年の国際報道写真協会主催の「南京・上海報道写真展」など、各種対外宣伝や報道に携わる。45年東京大空襲によりネガやプリントを焼失。  終戦後は次第に建築写真を専門とするようになり、53年伊勢神宮の第59回式年遷宮に際して、写真家として初めて許可を受けて内宮、外宮の御垣内を撮影。以後73年、1993(平成5)年の式年遷宮に際しても撮影を行った伊勢神宮(写真集に共著『伊勢 日本建築の原型』朝日新聞社 62年など)をはじめ、「奈良六大寺大観」として知られる法隆寺、東大寺などを撮影した一連の作品(『奈良六大寺大観』岩波書店、68~73年、全14巻のうち6つの巻を担当)など、多くの古社寺を撮影し日本の古建築写真の第一人者となった。また東宮御所(『東宮御所』毎日新聞社 68年)、皇居宮殿(『宮殿』毎日新聞社 69年)、帝国ホテル(『帝国ホテル』鹿島研究所出版会 68年)など近・現代建築を撮影した写真にも優れた仕事を残した。写真の機械的機能に立脚した表現を目指した新興写真の運動を通じて確立された写真観は戦後の建築写真の仕事にも引き継がれ、その建築写真はつねに、細部や質感の明解・精緻な描写、建築のフォルムの的確な把握、理想的な光線条件のもとでの豊かな諧調表現など、写真の機能を厳格かつ十分に生かしきることを基礎として、対象の造形美に迫ろうとするものであった。  50年に日本写真家協会が結成されると総務委員となり、53年には副会長に就任、58年から81年まで会長を務めた。日本著作権協議会の活動にも携わり71年に日本写真著作権協会が設立されると会長に就任、また78年発足の日本写真文化センター設立準備懇談会(のち日本写真美術館設立促進委員会と改称)の代表を務めるなど、写真著作権や写真の文化的価値の確立といった社会的な活動においても尽力し、90年に開館した東京都写真美術館の初代館長を務めた(95年退任)。58年より77年まで日本大学芸術学部写真学科教授として教鞭をとり、78年名誉教授となる。89年に新潟県美術博物館、91年に横浜美術館、96年には東京都写真美術館で回顧展が開催された。69年に紺綬褒章、72年に紫綬褒章、78年に勲三等瑞宝章を受章、90年には写真家としては初の文化功労者に選定された。 

出 典:『日本美術年鑑』平成13年版(237-238頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「渡辺義雄」『日本美術年鑑』平成13年版(237-238頁)
例)「渡辺義雄 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28190.html(閲覧日 2024-04-17)

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