今竹七郎

没年月日:2000/02/26
分野:, , , (デ・洋)

 グラフィックデザイナーで洋画家の今竹七郎は2月26日午前3時41分、呼吸不全のため兵庫県西宮市内の病院で死去した。享年94。1905(明治38)年神戸市下山手に生まれ、幼少より神戸の欧風化した雰囲気の中で育つ。1926(大正15)年関西で初めて創刊された少女雑誌『乙女の園』の挿画を描く。1927(昭和2)年神戸大丸百貨店意匠部に入社、飾窓、店内装飾、催場の構成などを担当、翌年には宣伝部付のデザイナーとなる。近代都市化の進む20年代の大阪・神戸を舞台にグラフィックデザインの仕事を始め、以後専ら阪神間を活動の拠点とする。29年新興写真運動を実践した中山岩太らとともに、神戸商業美術研究会を設立。30年大阪高島屋の宣伝部に入社。35年明治チョコレートの新聞広告で大毎東日産業美術展の第1位商工大臣賞を受賞。都会的感覚溢れるランランポマードの新聞広告(36~49年)等で独自のスタイルを確立していく。一方で、デザイン広告誌『広告界』に37年「シュールレアリスムと商業美術」の論説を寄せ、39年より同誌に「素描教室」と題してデザイン造形に関する解説を2年にわたり寄稿するなど、理論家としての側面を発揮する。戦後は終戦と同時に神戸元町に独自のスタジオ「日本デザイン」を開設、のち大阪へ移転し48年に「今竹造形美術研究室」と改称。51年には看護婦姿の少女をあしらった近江兄弟社のメンソレータムトレードマークや関西電力の社章を発表。54年国際印刷美術展で通産大臣賞受賞。1991(平成3)年兵庫県文化賞を受賞。画家の片手間仕事であったグラフィックデザインを自立した領域にまで高めたパイオニアとして知られる一方、31年に林重義が主宰する月曜会に入り、35年第5回独立展に「枯木のある風景」を出品、入選するなど絵画制作にも精力を傾け、39年には春陽会に初入選、同会を主な作品発表の場とする。53年の「摩天楼」以降は一貫して抽象表現をとり、具体美術協会の指導者吉原治良とも親密な交際があった。そのデザインと絵画における活動の全容については、89年に兵庫県立近代美術館と西武百貨東京池袋店で開かれた「今竹七郎の世界」展、同年刊行の画集『昭和のモダニズム 今竹七郎の世界』、98年西宮市大谷記念美術館で開催の「モダンデザイン・絵画の先駆者 今竹七郎展」等で紹介されている。

出 典:『日本美術年鑑』平成13年版(229-230頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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