丸木俊

没年月日:2000/01/13
分野:, (洋)
読み:まるきとし

 「原爆の図」などで知られる洋画家の丸木俊は1月13日午後7時26分敗血症のため、埼玉県毛呂山町の病院で死去した。享年87。1912(明治45)年2月11日、北海道雨竜郡秩父別村に生まれる。旧姓赤松。生家は寺であった。旭川高等女学校を卒業後、上京して女子美術専門学校(現 女子美術大学)に入学し、油彩画を学ぶ。1933(昭和8)年、同校を卒業。千葉県市川市市川小学校教員となる。37年4月ソヴィエト時代のモスクワに渡り、翌年4月まで滞在。39年ミクロネシア群島に渡る。同年第26回二科展に「白樺の林」で初入選。翌年の第27回二科展には「パラオ島民集会所」を出品。二科展には43年まで出品を続ける。41年1月から6月まで再度ソヴィエトに渡る。同年、画家丸木位里と結婚。45年8月、原爆投下直後、位里の両親が在住していた広島を夫婦で訪れ、被爆後の惨状を目にする。これをきっかけとして、その後夫妻のライフワークとなる「原爆の図」の制作が始まる。同年第5回美術文化協会展に赤松俊子の名で「地球儀」「解氷期」を出品して同会同人となる。翌年第6回美術文化展にはやはり赤松俊子の名で「デッサン(1)」「デッサン(2)」「少年」「飢」「人物(A)」「人物(B)」などを出品。50年夫婦合作による「原爆の図」第一部「幽霊」第二部「火」第三部「水」が完成。翌年同図五部作が完成し、日本国内に巡回展示される。こうした業績により53年世界平和文化賞を受賞。また、同年「原爆の図」三部作が世界に巡回展示される。56年同図十部作が完成したのを記念して「原爆の図」が世界に巡回展示される。67年、世界を巡回した「原爆の図」を一堂に展示するために私財を投じて埼玉県東松山市下唐子に鉄筋モルタル1階建て約270平米の「原爆の図丸木美術館」を開館。その後も、絵画によって原爆の悲惨さを訴えるべく70年「原爆の図」八部作をアメリカで巡回展示する。73年広島市の依頼により「ひろしまの図」(広島市現代美術館蔵)を描く。75年美術団体人人展を結成し、以後同展に出品を続ける。82年に「原爆の図」第十五部「長崎」を完成させブルガリア国際具象展に出品。「原爆の図」に見られる社会問題への興味、絵画による社会への提言は原爆問題以外にも展開され、79年には「三国同盟から三里塚まで」を制作してソフィアの国際展に出品し大賞受賞。83年「沖縄の図」八部連作を完成。87年「沖縄戦-読谷三部作」、「足尾鉱毒の図二部作」を制作し、翌年「足尾鉱毒の図」第三部作「渡良瀬の洪水」第四部作「直訴と女推しだし」を制作する。1989(平成1)年には同年に中国北京市で起きた天安門事件をモティーフに「天安門事件三部作」を、90年にはソ連のチェルノブイリ原子力発電所事故をモティーフに「チェルノブイリ」「反原発」を制作。95年静岡県伊東市池田二十世紀美術館で「丸木位里丸木俊の世界展」が開催される。96年、95年度朝日賞受賞。2000年には『原爆の国』(小峰書店)が刊行された。著書に『女絵描きの誕生』(朝日新聞社 77年)、『言いたいことがありすぎて』(筑摩書房 87年)がある。また、童画、絵本も制作し、71年国際童画ビエンナーレでゴールデンアップル賞受賞。『ひろしまのピカ』(小峰書店 80年)、『天人のはごろも』(童心社 98年)などが刊行されている。

出 典:『日本美術年鑑』平成13年版(227頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「丸木俊」『日本美術年鑑』平成13年版(227頁)
例)「丸木俊 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28164.html(閲覧日 2024-03-29)

以下のデータベースにも「丸木俊」が含まれます。

外部サイトを探す
to page top