吉井忠

没年月日:1999/08/05
分野:, (洋)

 洋画家吉井忠は、8月5日午後1時27分、肺炎のため、東京都渋谷区の病院で死去した。享年91。1908年(明治41)7月25日、福島県福島市陣場町に生まれる。福島第四尋常小学校から、福島県立中学校に進学し、同校で英語教師をしていた阪本勝(後の兵庫県立近代美術館館長)に影響を受ける。同校を26(大正15)年に卒業して上京し、東京美術学校を受験するが失敗。中村彝の出身校であることを理由に、太平洋画会研究所に入学。当時の所長は中村不折であった。同学に、井上長三郎鶴岡政男靉光寺田政明麻生三郎松本竣介らがあった。彼らの活動および、当時活躍中の、佐伯祐三、前田寛治、長谷川利行らの画風に刺激を受ける。28(昭和3)年第9回帝展に「祠」で初入選。翌年より太平洋画会展に出品を始め、また第10回帝展に「雨の日」で入選する。31年第27回太平洋画会展に「荒れの後」を出品して弘誓賞受賞。翌年の同展に「信濃の春」などを出品して中村彝賞を受賞する。太平洋画会研究所で学んだ、対象の再現描写を重視する写実的な画風が世に認められるものとなったと言えよう。36年第6回独立展に「女」を出品。同年寺田政明麻生三郎らと新宿・天城画廊で「前へ展」を開催し、この頃、寺田、麻生らによって結成されたエコール・ド・東京に参加する。画風は、シュールレアリズム風に変化している。同年秋、シベリア経由で渡欧。パリを拠点にオランダ、ベルギー、イタリアを訪れる。滞欧中、ピカソの「ゲルニカ」を見て感銘を受ける。37年夏に帰国し、東京池袋に居を定め、同年11月、東京丸の内の安田倶楽部で「吉井忠滞欧作品展Jを開催。38年、寺田政明糸園和三郎古沢岩美北脇昇らと創紀美術協会を結成。翌年、同会の寺田、北脇、また、福沢一郎らと美術文化協会を結成して、以後同展に出品を続ける。44年福島連隊司令部に派遣され、1ヶ月ほど中国へ渡る。45年、空襲により郷里福島の郡山市郊外へ疎開するが、46年に上京。47年、佐田勝井上長三郎丸木位里、赤松俊子らと前衛美術会を結成。また、同年美術文化協会を退会して、自由美術家協会に参加し、以後同展に出品。また、同年冬に第l回展が開催された日本アンデパンダン展に出品を続ける。戦中から、古典研究を基礎とする人物群像を多く制作するようになっており、50年代初めまでの作品にはセザンヌやピカソを研究した跡が認められるが、50年代半ばから再現描写を重視して描いた人物像を群像として構成し、生きることの厳しさ、力強さ、安らぎなどを表現する独自の画風を展開する。絵画制作を社会と密接に結びつけて位置づけ、60年秋、同年1月から始まった三井三池炭鉱争議の支援に出かけている。64年寺田政明麻生三郎大野五郎ら38名とともに自由美術家協会を退会し、主体美術協会を結成して以後、同展に出品を続ける。社会における造形表現の位置を考察しつづけ、自己表現よりも社会が絵画に求めるものを優先しようとする姿勢を貫き、常に生活に根ざした表現を模索した。86年メキシコ、キューバへ、88年敦煌、トルファンへ旅行するなど、世界各地を訪ねたことも、様々な土地の人々の生活を知り、自らの位置を確認する作業とつながるものであった。60年以上におよぶ画業を、油彩画120点、水彩・素描14点によって回顧する「吉井忠展―大地に響く人間の詩」が92(平成4)年に福島県立美術館で開催された。年譜、文献目録は同展図録に詳しい。著書に『水彩画入門』(造形社、1966年)、『吉井忠画集』(愛宕山画廊刊、1973年)、『クロッキーの魅力』(大野五郎と共著、美術出版社、1977年)などがある。

出 典:『日本美術年鑑』平成12年版(260頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「吉井忠」が含まれます。
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