田中繁吉

没年月日:1994/11/01
分野:, (洋)

創元会創立会員で同会理事長の洋画家田中繁吉は11月1日午前3時50分、肺炎のため東京都世田谷区の駒沢病院で死去した。享年96。明治31(1898)年9月13日、福岡県遠賀郡芦屋町山鹿1059に、父勘助、母かよの第12子6男として生まれる。生家は地主で郡下屈指の素封家であった。同44年山鹿尋常小学校を卒業し東筑中学校に進学。同校の美術教師で東京美術学校出身者であった藤崎某に油絵を学び東京美術判交進学を志す。大正5(1916)年春に上京し、同年東京美術学校西洋画科に入学。1年次には長原孝太郎、2年次に小林万吾、3年からは藤島武二に師事する。同級生に伊原宇三郎、前田寛治、鈴木千久馬鈴木亜夫田口省吾らがいる。同10年東京美術学校を卒業して同校研究科に進学。同11年第14回帝展に「ロミちゃんの庭」で初入選。前田寛治の勧めにより同15年春に渡仏。はじめアカデミー・グランショーミエールに学ぶが、のちアカデミー・ランソンに移りビシエールに師事。当時評の高まっていたキスリングに魅せられ、豊潤な色調の女性像を多く描くようになる。昭和3(1928)年7月に帰国。同年第9回帝展に「婦人像」で入選。翌4年白日会会員となる。同8年第14回帝展に「三人裸婦」を出品して特選受賞。同19年創元会創立会員となる。同32年再度渡欧し翌年帰国。同年日展評議員、同49年日展参与となる。同60年東京池袋西武アートフォーラムで「画業六十年記念田中繁吉展」が開催された。明快な色調の婦人像を得意とし、鮮やかな紫、緑などを使用した独特の色彩感覚を示した。

出 典:『日本美術年鑑』平成7年版(357頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

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例)「田中繁吉」『日本美術年鑑』平成7年版(357頁)
例)「田中繁吉 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28131.html(閲覧日 2024-03-29)

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