上野アキ

没年月日:2014/10/12
分野:, (学)
読み:うえのあき

 美術史家で東京文化財研究所名誉研究委員の上野アキは、10月12日、癌のため、死去した。享年92。
 1922(大正11)年9月15日に生まれる。父上野直昭は、京城帝国大学教授、大阪市立美術館長、東京藝術大学学長等を歴任した美術史家、母ひさは、大正3年に音校のヴァイオリンを卒業したヴァイオリニストであった。姉のマリは、美術史家吉川逸治の妻となった。24年から1927(昭和2)年までの約2か年半、父がドイツに留学したため、鎌倉の祖父母の家に預けられた。その後、父が京城帝国大学教授となったので、27年8月から38年10月まで、京城で暮らした。この間に、父と共に慶州や仏国寺等を訪れ、石窟庵など見学した。
 40年3月、私立桜蔭高等女学校を卒業。同年4月に東京女子大学高等学部に入学し、42年9月に同校を第3学年で繰り上げ卒業した。41年2月に大阪市立美術館長となった父が、この時期、夙川のアパートメントに住んでいたので、卒業後、1か月あまり、ここに居候し、寺や美術館などを見て歩いた。当時進められていた法隆寺の壁画模写を見学し、聖林寺の聖観音、新薬師寺の香薬師等を観た。
 42年11月に美術研究所の臨時職員に採用された。当時の所長は、前年の3月に京城帝国大学を定年退職した田中豊蔵であった。43年までは資料室に属し、その後、資料室を離れて、美術研究の編集を担当した。そのうち戦争が激しくなったため、美術研究所は、黒田清輝作品などを疎開させねばならなかった。44年8月に黒田清輝作品とガラス原板を東京都西多摩郡小宮村及び檜原村に疎開させた、また、45年5月末に、図書、焼付写真、その他の資料を山形県酒田市に疎開させ、さらに7月、牧曽根村、松沢世喜雄家倉庫、観音寺村村上家倉庫、大沢村後藤作之丞家倉庫に分散し、疎開させた。上野は、東京に残留し、黒川光朝とともに美術研究を担当し、紙の手当や印刷所探しなどに追われた。
 終戦直後は、美術研究所の復興に忙しかった。46年4月4日、図書、焼付写真が研究所に戻り、同年4月16日に黒田清輝作品、写真原板が研究所に戻った。職員が総出で整理に当たり、同年5月20日に美術研究所の復興式を挙行した。上野は、48年4月に国立博物館附属美術研究所の常勤の事務補佐員となり、49年4月に国立博物館附属美術研究所の研究員(文部技官)となった。51年1月に文化財保護委員会附属美術研究所資料部に配属、52年4月に東京文化財研究所美術部資料室に配属された。60年、高田修編『醍醐寺五重塔の壁画』(1959年3月刊行)によって、第50回日本学士院賞恩賜賞を共同研究者として受賞した。62年以降、『東洋美術文献目録』(1941年刊行)に次ぐ目録の編纂事業が始まり、上野は、辻惟雄、永雄ミエ、江上綵、関口正之らとともにこの事業に参画した。69年3月に『日本東洋古美術文献目録 昭和11〜40年』が刊行された。69年4月に東京国立文化財研究所美術部主任研究官となり、76年4月に東京国立文化財研究所美術部資料室長となった。77年4月、東京国立文化財研究所情報資料部の創設に伴い、文献資料研究室長となった。84年3月に辞職し、東京国立文化財研究所名誉研究員となった。
 上野の研究テーマの一つは、中央アジア古代絵画史研究である。当初、上野は大谷探検隊の収集品について研究を進め、とりわけ新疆ウイグル自治区トルファン地区の遺跡出土品の研究を、ヨーロッパや中国の報告書をもとに行った。68年に東京国立博物館に東洋館が開館し、大谷探検隊収集品が収蔵、展示されたことにより。上野の研究に拍車がかかった。73年には、「中央アジア絵画における東方要素とその浸透についての検討」のテーマで科学研究費を受け、国内所在の中央アジア絵画及び模本類の調査を進め、かつ敦煌絵画研究の成果を踏まえて、中央アジア絵画に見られる東方要素の考察を進めた。また、龍谷大学や天理参考館が所蔵する伏羲女媧図を外国所在の類品と比較して、墓葬画としての特質を抽出した。上野は、海外の美術館や博物館が所蔵する中央アジア関連遺品や現地調査も積極的に行った。66年7月から9月にかけて、大英博物館、ギメ東洋美術館、ベルリン国立美術館(インド美術館)の所蔵品、さらにニューデリーの国立博物館が所蔵するスタイン資料の調査を行った。76年10月から12月には、文部省の在外研究員として、アメリカとヨーロッパの美術館や博物館を訪ね、中央アジアの遺品を調査し、とくにドイツ探検隊のル・コックの手元を離れた壁画断片類の所在地、現状、元位置等を詳細に研究した。79年にはトルファン、80年には敦煌を訪ね、中央アジア絵画の研究を深めた。
 上野の研究のもう一つのテーマは、高麗時代の仏画の研究である。上野は、76年から2か年、科学研究費による研究「朝鮮の9〜16世紀の仏教美術に就ての総合的研究―特に日本国内の所蔵品調査を中心として―」に参画し、高麗時代の仏画を重点的に調査して、高麗仏画独特の表現や技法を解明した。77年10月に韓国芸術院で開催された第6回アジア芸術シンポジウムに参加し、「日本所在の韓国仏画」と題して成果の報告を行い、大きな関心を集めた。研究成果は、その後、81年刊行の『高麗仏画』収載の論文や作品解説にまとめられた。
主な著作
「西域出土胡服美人図について」『美術研究』189(1957年)
「装飾文様」高田修編『醍醐寺五重塔の壁画』(吉川弘文館、1959年)
「喀喇和卓出土金彩狩猟文木片」『美術研究』221(1962年)
「トルファン出土彩画断片について」『美術研究』230(1963年)
「古代の婦人像―正倉院樹下美人図とその周辺」『歴史研究』13-6(1965年)
「トユク出土絹絵断片婦人像」『美術研究』249(1967年)
「敦煌本幡絵仏伝図考(上)」『美術研究』269(1970年)
「エルミタージュ博物館所蔵ベゼクリク壁画誓願図について」『美術研究』279(1972年)
『東洋美術全史』(共著、東京美術、1972年)
「敦煌本幡絵仏伝図考(下)」『美術研究』286(1973年)
「アスタナ出土の伏羲女媧)図について(上)」『美術研究』292(1974年)
「アスタナ出土の伏羲女媧図について(下)」『美術研究』293(1974年)
「アスターナ墓群」『中国の美術と考古』(六興出版、1977年)
「キジル日本人洞の壁画―ル・コック収集西域壁画調査(1)」『美術研究』308(1978年)
「キジル第3区マヤ洞壁画説法図(上)―ル・コック収集西域壁画調査(2)」『美術研究』312(1980年)
「キジル第3区マヤ洞壁画説法図(下)―ル・コック収集西域壁画調査(2)」『美術研究』313(1980年)
「高麗仏画の種々相」『高麗仏画』(朝日新聞社、1981年)
『西域美術―大英博物館スタインコレクション― 第1巻』(翻訳)(講談社、1982年)
『西域美術―大英博物館スタインコレクション― 第2巻』(翻訳)(講談社、1982年)
Spread of Painted Female Figures around the Seventh and Eighth Centuries, Proceedings of the Fifth International Symposium on the Conservation and Restoration of Cultural Property -Interregional Influences in East Asian Art History, Tokyo National Research Institute of Cultural Properties, 1982. 10.
「絵画作品の諸問題」 龍谷大学三五〇周年記念学術企画出版編集委員会編『佛教東漸 祇園精舎から飛鳥まで』(龍谷大学、1991年)
「父上野直昭のこと」財団法人芸術研究振興財団・東京芸術大学百年史刊行委員会編『上野直昭日記 東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第三巻 別巻』(ぎょうせい、1997年)
「アスターナ出土の絵画と俑」『エルミタージュ美術館名品展―生きる喜び―』新潟県立近代美術館 2001.7.6〜9.5、ATCミュージアム(大阪市) 2001.9.15〜11.4

出 典:『日本美術年鑑』平成27年版(513-514頁)
登録日:2017年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「上野アキ」『日本美術年鑑』平成27年版(513-514頁)
例)「上野アキ 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/247379.html(閲覧日 2024-04-17)

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