宮脇愛子

没年月日:2014/08/20
分野:, (彫)
読み:みやわきあいこ

 彫刻家の宮脇愛子(本名、磯崎愛子)は8月20日、膵臓がんのため横浜市内の病院で死去した。享年84。
 1929(昭和4)年9月20日に生まれる。幼い頃から身体が弱く、戦時中の勤労動員でも自宅療養することが多かったという。また、丈夫になるようにと幾度か名を変えており、幼稚園の頃には貴子、女学校時代までは幹子という名前だった。46年3月小田原高等女学校(現、神奈川県立小田原高等学校)卒業、52年3月日本女子大学文学部史学科卒業。卒業論文では桃山美術を扱った。学生時代には義理の姉であった画家の神谷信子を介して知り合った洋画家・阿部展也のもとへ通っていたというが、親戚に絵描きはひとりでたくさんだといわれていたことから、描いた作品を発表しようという考えはなかったという。53年には文化学院にて阿部に学び、一方で同じく義姉を通じて知り合った美術家の斎藤義重に作品を発表することの意義を諭され、作品は人に見せなければ駄目だと考えるようになる。57年、アメリカへ短期留学し、カルフォルニア大学ロサンゼルス校とサンタモニカ・シティ・カレッジにて絵を学ぶ。59年12月、東京の養清堂画廊にて初の個展を開催。個展には1点を除き同年に制作された作品19点が展観され、絵具にエナメルや大理石の粉末をまぜて作り上げた色面に描線を刻み込む表現は、レリーフや鎌倉彫のようだと評された。同年夏にはインドを経由してウィーンを訪れ世界美術家会議に参加、その後ミラノに滞在した。ミラノでは阿部の紹介でエンリコ・バイが保証人になったといい、フォンタナら若い芸術家グループと親交を持ったという。61年ミラノのミニマ画廊にて個展開催、翌62年1月には日本での2度目となる個展を東京画廊にて行った。絵具に大理石の粉を混ぜ、同じようなパターンをパレットナイフで画面に並べていくという方法で描かれた作品は、このとき来日していたフランスの画商、アンドレ・シュレールの目に留まり、宮脇はシュレールと契約、1年間パリに滞在して作品制作と個展を行った。パリではマン・レイらと交際し、63年、パリからの帰国に際して立ち寄ったニューヨークにそのまま滞在、66年帰国した。この間、64年にはニューヨークのベルタ・シェーファー画廊にて個展を開催、そのときのカタログにはマン・レイが序文を寄せている。66年11月には銀座・松屋で開かれた「空間から環境へ」展へ出品、このとき初めて磯崎新と知り合う。展覧会へは三角形を重ね合わせ、平面における遠近法を立体で表現したような作品を出品。また、同じ頃より真鍮のパイプを用いた作品の制作を開始、67年3月には東京画廊にて個展を行った。真鍮の角筒や円筒を組み合わせ、人工照明ないしは自然光による光の効果を演出した作品には、油彩により平面に光が分布する状態を捉えようとしていたという以前の作品からの立体への展開が見られるとされた。同年10月にはアメリカのグッゲンハイム美術館で開催されたグッゲンハイム国際彫刻展へ出品、真鍮の角筒を組み合わせた作品は美術館買い上げ賞に選ばれる。翌68年11月、第5回長岡現代美術館賞展へ音の出る作品「振動」を出品、70年5月には60年代の総決算となる個展をポーランドのウッジにて開催した。また、この頃宮脇は素材によってテーマを決めて制作をしていたといい、ガラスの透明感を損なわないため切るのではなく割るという方法を採った「MEGU」シリーズや、三角形の金属や石の板に展覧会をする国の言葉で「Listen to your portrait」と刻んだ「Listen to your portrait」シリーズを制作している。72年、建築家の磯崎新と結婚。同年、辻邦生『背教者ユリアヌス』で初めて装丁を手がけた。76年9月には東京のギャラリー・アキオにおいて個展を開催、翌77年には第7回現代日本彫刻展へ三角柱を三つに割り、距離をとって三角形に配置した「MEGU-1977」を出品、北九州市立美術館賞を受賞。またこの頃には、精神的な行き詰まりから写経をするような気持ちで描いていたという「スクロール・ペインティング」シリーズが制作されている。78年10月には磯崎新の指揮の下、パリのルーヴル宮殿内にある装飾美術館で開催された「日本の時空間―<間>」へ参加、「うつろい」をテーマとした部屋で、後に「A Moment of Movement」と題された、真鍮の屏風のような作品を展示した。その後、ニューヨークのポート・オーソリティから彫刻のコンペティションに招待されたのを機に、虚空に線を描くかのようにのびのびとした自由な魂、中国語でいう「気」を表したいと実験的な制作を繰り返し、79年12月の東京画廊における小品展へその模型を出品、翌80年3月、愛知県一宮市の彦田児童公園に、後に宮脇の代名詞ともなる「うつろひ」シリーズの第1作目となった「UTSUROI」が設置された。このときの作品は2本のパイプを撓わせたもので、工場であらかじめつくったものを設置したという。5月には名古屋のギャラリーたかぎで「宮脇愛子1960-1980」が開催、新作として、ステンレスワイヤーで先の「UTSUROI」とほぼ同じ形の作品を展示する。このときには素材をワイヤーに変更したため、設置は会場において宮脇自身の手で行われた。81年7月、第2回ヘンリー・ムア大賞展へ12本のワイヤーからなる「うつろい」を出品、エミリオ・グレコ特別優秀賞受賞。82年には第8回神戸須磨離宮公園現代彫刻展にて「うつろい」で第1回土方定一賞を、86年には第2回東京都野外現代彫刻展にて「うつろひ」で東京都知事賞をそれぞれ受賞。85年にはパリのジュリアン・コルニック画廊で個展を開催する。この個展をきっかけに、ラ・デファンス地区のグランダルシュ(新凱旋門)そばの広場に「うつろひ」を設置することとなり、1989(平成元)年に完成。翌90年には、92年のバルセロナオリンピックへ向けて磯崎新の設計で建てられたサンジョルディ・スポーツ・パレス前の広場にも「うつろひ」が設置された。94年には磯崎新の設計による岡山県の奈義町現代美術館に、荒川修作、岡崎和郎とともに作品を設置。97年、突然病に倒れるが、翌98年に神奈川県立近代美術館で開催された個展には、「うつろひ」を新たに水墨で表現した連作を制作、出品する。2001年には奈義町現代美術館において「墨によるうつろひドローイング 宮脇愛子展」が開催された。12年にはギャラリーせいほう、ときの忘れものの二会場にて59年から70年代の作品に焦点を絞った個展を開催、14年3月にはカスヤの森現代美術館にて個展を開き、初期の作品から最新の絵画作品までが展観された。
 絵画から彫刻へ、油彩から真鍮、ガラス、スチールワイヤーへとその技法や素材をさまざまに展開させた宮脇だが、「しつこいくらいに一生貫き通す自分の思想がなければ、アーティストとはいえないでしょうね。」と語っているように、一貫して同じコンセプト、宮脇のいう「あらぬもの」を見ようとする姿勢で制作を続けた。

出 典:『日本美術年鑑』平成27年版(508-509頁)
登録日:2017年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「宮脇愛子」『日本美術年鑑』平成27年版(508-509頁)
例)「宮脇愛子 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/247373.html(閲覧日 2024-03-19)

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