登石健三

没年月日:2014/07/30
分野:, (学)

 IIC(国際文化財保存学会)名誉会員(Honorary Fellow)、文化財保存修復学会名誉会員、東京文化財研究所名誉研究員、物理科学者の登石健三は肺炎のため7月30日に死去した。享年100。
 1913(大正2)年9月5日に広島県の江田島で生まれ、第三高等学校を卒業した後、大阪帝国大学理学部物理学科に進んだ。卒業後、1936(昭和11)年3月に当時の理化学研究所に就職、長岡半太郎博士の助手となり、「本を書くより研究に励め」の長岡の指導の下、分光スペクトルの研究に没頭した。42年に招兵され戦後のシベリア抑留も含めて49年11月に帰国した。50年理学博士(大阪大学)。㈱科学研究所(旧理化学研究所)に復職して高峰研究室に属し、芳野富彌とともに『分光化學分析用基準スペクトル表』(1952年、㈱科学研究所)をまとめた。52年10月に、できたばかりの東京文化財研究所に転職し、文化財保存のための物理学応用研究を始めた。当時の東京文化財研究所は現在の東京国立博物館の地下と通用門近くの木造の小屋にあった。保存科学部長は建築史の関野克で、登石は物理研究室長を務め、コバルト-60など放射性同位元素を用いた文化財の透視調査を始めた。当時の放射線透視調査で有名なものは、中尊寺金堂の巻柱、日光東照宮陽明門の側壁、鎌倉大仏の欠陥調査などがある。中尊寺金色堂のX線調査から、部材それぞれに漆を塗って仕上げたのちに組み立てたものと分かり解体修理が決定したなどの成果を挙げた。また当時は文化財を船便で移動しており、赤道付近で長期間の高温高湿度に曝されカビ発生のおそれがあったが、乾燥剤をある程度湿らせたもの(「科研ゲル」(当時の英語名称はKakew))を密閉容器内に入れて湿度を制御する新しい手法を開発し、『古文化財の科学』や“Studies in Conservation”などの学会誌に研究成果を発表した。調湿剤を用いた密閉容器内の湿度調節は、今日では輸送用の梱包容器や密閉展示ケースなどで日常的に用いられており、この功績に対して78年に紫綬褒章を受けた。また見城敏子と共に打ち立てのコンクリートから発生するアルカリ物質の油絵への影響を世界で初めて指摘し、その研究成果により2004(平成16)年5月にはIIC(国際文化財保存学会)の名誉会員(Honorary Fellow)となった。また、より良い展示・収蔵環境を実現するため、日本の気候風土を考慮した保存環境研究を行い、保存環境整備に努めた。72年の高松塚古墳壁画発見時には保存施設整備に関わり、在職最後は虎塚古墳(茨城県)などの装飾古墳の保存に携わった。75年に61歳で東京国立文化財研究所を退官し、78年に名誉研究員となった。そのほか、75年4月より東海大学講師、国学院大学講師、株式会社寺田倉庫顧問、任意団体日本文化財研究所顧問、76年より千葉県文化財審議会委員、飛鳥保存財団委員、77年より船橋市文化財審議会委員、78年より日本考古学研究所所長、80年より船橋市野外彫刻設置委員会委員、85年には川崎市日本民家園協議会委員を務めた。88年4月から99年3月まで財団法人文化財虫害研究所(現、公益財団法人文化財虫菌害研究所)理事長、87年から99年まで古文化財科学研究会(現、文化財保存修復学会)の会長を務めるなど、文化財保存修復に関する教育、行政への協力、学会の発展に尽力した。84年に勲三等瑞宝章を叙勲し、その逝去にあたり14年8月29日閣議決定で正五位の位記追贈を受けた。職務上での発明として62年 密閉梱包内の相対湿度をほぼ恒常に保つ方法、65年 正規投影撮影装置、66年 被写体の等高線群を各線につき等しい倍率で写す方法などの特許がある(本人著書より)。登石は常にユーモアにあふれた態度で周囲と接し、世の中に対してウィットに富んだ見方を持ち、また自身のことを先人が手をつけなかった分野を研究したハイエナ流の仕事の仕方と表現していたが、現代に生きる我々に対して、周りに同調するのではなく「各人が自分の見識をしっかりと持つこと」が大事である、と最後の執筆である『百年賛歌-登石健三の生涯』(根本仁司編、岩波ブックセンター、2014年)に記している。10年に逝去した山〓一雄と双璧をなした文化財保存科学の黎明期を支えた偉大な研究者であり、その研究成果は文化財を取り巻く環境を制御する基本技術となっている。

出 典:『日本美術年鑑』平成27年版(506-507頁)
登録日:2017年10月27日
更新日:2017年10月27日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「登石健三」が含まれます。
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