中野玄三

没年月日:2014/04/21
分野:, (学)

 嵯峨美術短期大学元学長かつ名誉教授で、仏教美術史家の中野玄三は、4月21日、鼻腔悪性黒色腫のため、京都府城陽市の病院で死去した。享年90。
 1924(大正13)年1月1日、佐賀県唐津市に生まれる。翌年の年末に、40代だった父・範一が突然亡くなると、身重の母・てる子は玄三を含め5人の子を引き連れて上京。日中戦争勃発後の1939(昭和14)年12月、予科士官学校に入学。以後、職業軍人の道に進むことを余儀なくされた。43年に陸軍航空士官学校を卒業すると、陸軍少尉に任官してただちに飛行部隊二八戦隊に入隊し、中国東北部の温春に駐屯。その後、千葉県東金飛行場へと戦隊は移動し、そこで敗戦を迎えた。
 46年、公職追放令のために公職に就くことができなかった中野は、敗戦時に駐屯していた千葉県東金で農家の下働きをし、その後東京の工場で働くこととなった。幼い頃の最年長の姉や兄弟の死、陸軍士官学校同期生の戦死、敗戦という戦中戦後にかけての体験が中野の心を深くえぐり、脅迫的なまでの死の対する恐怖心が植え付けられることとなり、この観念が中野の研究の基調をなしていた。
 将来の展望をもてなかった20代前半のある日、中野は東京国立博物館を訪れてみたという。このふとした訪問が人生の大きな転機となった。その後博物館に足を運ぶようになり、52年4月に開催された博物館友の会主催の第2回「春の旅行」に参加して関西の国立博物館や寺社仏閣をめぐった。このときに「関西の大学に入り直して、本格的に美術の勉強をしてみたい」と心ひそかに思ったという。すでに同年3月に会社を退職しており、大学受験を後押しする条件が内外ともに揃っていた。
 持ち前の集中力を発揮して、53年4月に京都大学文学部に入学。貪欲に勉学にいそしみ、人より10年遅れての青春であった。史学科国史学専攻へ進学。
 57年に卒業後、京都府教育庁文化財保護課へ就職。後進の美術史研究者に大きな影響を与えた「八世紀後半における木彫発生の背景」(『悔過の芸術』所収、初出は1964年)は、修理のために神護寺薬師如来立像が国宝修理所へと搬出される際に立ち会った経験が端緒となった。生涯にわたって研究の柱の一つとなった『覚禅鈔』などの密教図像に出会うのも京都府時代のことであった。東寺観智院の聖教調査で新義真言宗開祖の覚鑁の著作を発見したことが、60年の「山越阿弥陀図の仏教思想史的考察」に結実。これが学術誌に掲載された最初の論文である。
 67年4月、京都府庁から奈良国立博物館へと転職。69年から3年間かけて勧修寺本『覚禅鈔』を調査。平行して『覚禅鈔』諸写本の総合的な調査も精力的に行った。当時、京都市立芸術大学教授であった佐和〓研が主導した密教図像調査に参加し、その成果は69年の『仏教藝術』70号「素描仏画特集号」となり、中野も「覚禅伝の諸問題」ほかを寄稿して覚禅鈔および覚禅に関する基礎的事項を明らかにした。
 71年には「社寺縁起絵展」を担当。かねてより縁起絵に関心を寄せていたが、京都府時代の多くの調査経験もまた縁起絵の世界への興味をより一層かきたて、「社寺縁起絵展」の成功へとつながる。また奈良博時代には、仏教美術に関する網羅的な情報の収集と公開をするという『国宝重要文化財 仏教美術』刊行事業を担当。この壮大な事業は、残念ながら中野の配置換えにより未完に終わったが、公刊された巻からは京都府時代に培った調査・研究・編集の能力が如何なく発揮されていることがうかがわれる。
 74年4月、奈良国立博物館から京都国立博物館へ配置換え、美術室長となる。以後、84年の退官まで、学芸員が総掛かりで準備する特別展や、個人研究の成果公開の場として重視されていた特別陳列にほぼ毎年のように携わった。折しも京博所蔵になった東寺伝来の十二天画像の研究に取り組み、77年4月に特別展「十二天画像の名作」を開催。奈良博時代以来の『覚禅鈔』調査の成果が79年7月の特別展「密教図像」、同年10月末の特別陳列「不動明王画像の名品」展に結実。あわせて78年11月には金剛峯寺所蔵の「応徳涅槃図」の修理完成披露を兼ねた「涅槃図の名作」展、82年1月には「源頼朝・平重盛・藤原光能像」展。また配置換え当初は近世絵画の担当であったことから80年6月と翌年7月には特別陳列「探幽縮図」展を開催。中野の実に幅広い関心のさまがよく表われている。最後の特別陳列となったのが82年8月の「六道の絵画」展であった。卒業論文以来、一貫して追求してきた六道絵をテーマにした総決算としての特別陳列であった。
 84年4月から3年間は京都文化短期大学(現、京都学園大学)、同年4月から1994(平成6)年3月まで嵯峨美術短期大学(現、京都嵯峨芸術大学。91年〜94年は学長)の教壇に立った。この間、名古屋大学や京都大学の非常勤講師も勤めており、中野の謦咳に接した研究者の卵は多かった。擬音語擬態語を用いながら繰り広げられる朴訥とした語り口が魅力的だったという。
 この時期には『大山崎町史』『山城町史』など数多くの市町村史の編纂事業に携わったほか、佐和〓研の急逝後中断していた大覚寺聖教調査が中野を団長として91年に再開され、翌年には嵯峨天皇遠忌の記念行事の一環として大覚寺乾蔵収蔵の聖教目録が刊行された。この事業を母体に95年には歴史学の研究者による大覚寺聖教・文書研究会が発足、翌年には歴史学、仏教史学、美術史学の研究者がメンバーである覚禅鈔研究会へと解消発展した。この一連の事業・研究は、聖教が歴史学一般にも有用な史料であることが広く理解されるようになる先駆的な役割を果たすものであった。
 「私は研究者同志がお互いに相手を批判する論文を書くことは、研究に活力を与えるよい慣例だと思う」(中野「私と若き研究者との出会い」[中野玄三・加須屋誠・上川通夫編『方法としての仏教文化史』勉誠出版、2010年])と明言するように、病気を押しながらも、中野は、最期まで、反論には再反論でこたえ、真摯に研究に向き合う姿勢を貫いた。
 本稿は、中野の生い立ちと人柄、その研究の意義と研究史上の位置づけを、愛情をこめて論じた加須屋誠「中野玄三論」(中野玄三・加須屋誠『仏教美術を学ぶ』思文閣出版、2013年)に多くを負っている。
 主な著書は以下のとおり。
 『悔過の芸術』(法蔵館、1982年)
 『日本仏教絵画研究』(法蔵館、1982年)
 『日本仏教美術史研究』(思文閣出版、1984年)
 『来迎図の美術』(同朋舎出版、1985年)
 『日本人の動物画』(朝日新聞社、1986年)
 『六道絵の研究』(淡交社、1989年)
 『続日本仏教美術史研究』(思文閣出版、2006年)
 『続々日本仏教美術史研究』(思文閣出版、2008年)

出 典:『日本美術年鑑』平成27年版(500-501頁)
登録日:2017年10月27日
更新日:2017年10月27日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「中野玄三」が含まれます。
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