村岡三郎

没年月日:2013/07/03
分野:, (彫)

 彫刻家の村岡三郎は、7月3日肺炎のため滋賀県大津市の病院で死去した。享年85。
 1928(昭和3)年6月25日、大阪市に生まれる。旧制大阪府立高津中学校(現在の大阪府立高津高等学校)に学ぶ。45年九州の航空隊に配属、「特攻」要員として終戦を迎える。47年に同中学校を卒業。50年、大阪市立美術研究所彫刻部を修了。同年3月、第1回関西総合美術展覧会に出品、同年9月、第36回二科展に初入選。二科展には、以後67年の第52回展まで出品を続けた。65年10月、第1回現代日本彫刻展(宇部市野外彫刻美術館)に「作品(冬眠中)」(材質:金属、ゴムその他)を出品、K氏賞受賞。69年10月、第3回同展(同会場)に「自重」(材質:ポリエステル)を出品、大賞を受賞。71年10月、第4回同展でも「ゲル化(硬化)」(材質:F.R.P.)によって再びK氏賞受賞。また69年8月に、信濃橋画廊(大阪市)にて「砂」と題した初個展を開催。以後、個展、ならびにコンクール形式の展覧会、または現代美術を紹介する各地の美術館の企画展に出品を重ねた。
 77年5月、「ホヴァリング」(空中停止)と題して個展(信濃橋画廊)を開催、自らの落下中の姿を撮影した写真映像と、ドローイングや鉄を素材にした作品によるインスタレーションを試み、コンセプチュアルアートとして評価された。83年10月、「熔断1380°C×6000」を信濃橋画廊の個展で発表、溶断した鉄棒を展示して溶断する身体と時間を意識化さることを試みた。この溶断、溶接の行為は、以後村岡にとって重要な表現のひとつとなった。86年7月から翌月にかけて、中国新疆ヴィグル地区に赴き、タクラマカン砂漠を旅行。この時の体験は、その後の制作に大いに影響を与え、特にこの地の岩塩を得たことから、鉄、硫黄とともに塩もその後の表現の要素に加わった。87年11月、第4回牛窓国際芸術祭―彫刻と空間(会場、岡山県牛窓町)に、「牛窓・7つの酸素」を出品、酸素ボンベを初めて作品に組みいれた。70年代から80年代にかけて、村岡の作品は、元素的な素材を取りあげて、溶接、熱、振動の痕跡を作品化、もしくはインスタレーションとして提示し、自然、身体、宇宙、生命等を強く意識した創作活動をつづけた。
 1990(平成2)年、第44回ヴェネツィア・ビエンナーレに遠藤利克とともに日本館に出品(日本のコミッショナーは美術評論家建畠晢)、国際的にも注目された。97年11月、東京国立近代美術館にて「村岡三郎展 熱の彫刻―物質と生命の根源を求めて」を開催(同展は、翌年3月まで京都国立近代美術館を巡回。)80年代から90年代までの近作を中心に28点を出品。同展の成果により、99年1月に第40回毎日芸術賞を受賞。
 青年期にあたる戦中、戦後の時期の苛烈な体験から、内面に虚無を抱えこむことなく、また情緒性や感傷を一切排し、科学、物理学の原理的な理論を援用しながら、自らの死生観と想像力を元素的な物体を素材にして表現した特異なアーティストであった。身体性、観念性と即物性を力技で作品化した点から、日本の戦後美術から現代美術においてユニークな位置を占めている。なお創作活動と並行して、81年から滋賀大学教育学部教授として勤め、93年3月に退官。続いて同年4月より2002年まで京都精華大学芸術学部教授を勤めた。没後、2013年7月、京都精華大学(会場、同大学ギャラリーフロール)にて「故 村岡三郎先生 追悼展示」が開催された。

出 典:『日本美術年鑑』平成26年版(459-460頁)
登録日:2016年09月05日
更新日:2016年09月05日 (更新履歴)
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