中村誠

没年月日:2013/06/02
分野:, (デ)

 グラフィックデザイナー、アートディレクターの中村誠は6月2日、肺炎のため死去した。享年87。
 1926(大正15)年5月9日、岩手県盛岡市に生まれる、生家はゴム長靴などを扱う中村ゴム店を営んでいた。幼少期に近所の薬局の店頭に飾られた資生堂化粧品のポスターに強く魅せられ、同社広報誌『花椿』の山名文夫による表紙画を模写した。33年岩手県立盛岡商業学校(現、岩手県立盛岡商業高等学校)に入学。美術部に所属、写真に興味を持ち、フォトグラムも制作する。同年秋には全国商業学校ポスター展で入選。同校在学中に生家の中村ゴム店が閉店。43年12月、同校を繰上げ卒業。44年4月東京美術学校(現、東京芸術大学)工芸科図案部に入学。主任は和田三造、担任は小池岩太郎で、2年生のときに軍の教育用図面を描く作業に動員される。46年「ニッポンルネッサンス・広告展」(日本橋・三越、主催は日本広告会)に出品。47年10月から資生堂宣伝部嘱託となり、翌年11月まで勤める。48年3月同校工芸科図案部を卒業。49年9月、資生堂に入社、宣伝部に配属。52年第37回二科展の商業美術部に出品。53年第3回日本宣伝美術会展に出品、特選を受賞、会員となる。以後68年の同会解散まで毎年出品。57年「資生堂香水」で第10回広告電通賞雑誌広告電通賞を受賞。60年ころ、写真家横須賀功光やデザイナー村瀬秀明と知り合い、新しい写真表現と印刷技術を駆使する広告制作に取り組む。63年「資生堂海外向け企業ポスター」(コスチュームは三宅一生、写真は横須賀功光)で日宣美会員賞受賞。また同年、ADC金賞、朝日広告賞、毎日広告賞など受賞して、新時代のアートディレクターとして一躍注目を浴びる。66年同社の夏用化粧品「ビューティケイク」のキャンペーンでモデル前田美波里を起用し、「太陽のように愛されよう」というコピーがヒットし社会現象となる。70年「モナリザ百微笑展」(銀座一番館ギャラリー)で福田繁雄と50点ずつの作品を展示、翌年から「ジャポン・ジョコンダ」展としてパリ装飾美術館で開催、その後アメリカをはじめ十数カ国に巡回される。76年第6回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレで「資生堂ネイルアート・資生堂フラッシュアイズ」が商業部門で金賞受賞。資生堂では宣伝部デザイン課長(1962年から)、宣伝部制作室長(1969年から)、宣伝部長兼制作室長(1977年から)、役員待遇宣伝部長(1979年から)、役員待遇宣伝制作部長(1982年から)、常勤顧問(1987年から)を務める。資生堂を離れた後はフリーのグラフィックデザイナーとなり、自然やエコロジーをテーマにした作品を多く発表した。93年紫綬褒章受章。それまでの山名文夫らによって作られた繊細なイラストレーションによる資生堂のイメージを刷新、時代を先導するブランドイメージを確立し、戦後の日本広告界やグラフィックデザイン界を牽引してきたアートディレクターとして位置づけられる。
 作品集に『富嶽三十六景・江戸小紋と北斎』(凸版印刷、1972年)、『紀信と玉三郎』(凸版印刷、1973年)、『中村誠の仕事―アートディレクションとデザイン』(講談社、1988年)がある。観光文化交流センター「プラザおでって」開館にあわせて、全作品193点とコレクション200点を盛岡市に寄贈、2000年に同館の柿落としとして「中村誠ポスター展」を開催。2008年7月に萬鉄五郎記念美術館で回顧展を開催。国際グラフィック連盟(AGI)会員、東京ADC委員、JAGDA理事を歴任。「日本のポスター100年」展(銀座松屋、1968年)、グラフィックイメージ72(東京セントラル美術館、1972年)、グラフィックイメージ’73(東京セントラル美術館ほか、1973年)、グラフィックイメージ’74(東京セントラル美術館ほか、1974年)などの企画展で作品が展観された。

出 典:『日本美術年鑑』平成26年版(455-456頁)
登録日:2016年09月05日
更新日:2016年09月05日 (更新履歴)
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