ドナルド・リチー

没年月日:2013/02/19
分野:, (映C)

 映画評論家、映画作家のドナルド・リチーは2月19日に東京都内の病院で死去した。享年88。アメリカに生まれ、日本で70年近くを過ごし、日本映画を欧米圏に積極的に紹介し国際的な評価を高める地歩を築いた。2004(平成16)年に旭日小綬章を受章した。
 1924(大正13)年4月11日アメリカ合衆国オハイオ州のリマに生まれる。少年時代から映画に関心を持ち、映画館で映画を多数見て過ごした。オーソン・ウェルズの『市民ケーン』(1941年米国公開)を見たのが契機となり、8mmフィルムで自分でも作品を作り始める。リマ中央高校を卒業後、アルバイトをしながらヒッチハイクでアメリカ各地を巡り、終戦直後の1946(昭和21)年、22歳の時に米国進駐軍文化財部のタイピストとして来日した。東京で47年から49年まで「パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス」紙の映画批評欄を担当。アメリカに帰国してコロンビア大学に入学、54年に大学を卒業した後、再び来日。54年から69年まで「ジャパンタイムズ」紙の映画批評を担当した。59年には映画評論家ジョセフ・アンダーソンとともに『The Japanese Film:Art and Industry』を出版。これは英語による日本映画についての統括的な最初の研究図書となった。そのため、欧米圏の多くの映画研究者から日本映画研究のための必読書と目された。また、61年にはカンヌ映画祭での溝口健二監督回顧上映に協力し、同年のベルリン映画祭では黒澤明監督特集、63年の小津安二郎監督特集の企画・上映の責任者を務め、日本映画を積極的に欧米へ紹介。現在では国際的に評価の高い、日本映画黄金期の監督を知らしめる礎の一端を担った。そうした貢献に対して63年には日本映画海外普及協会(ユニジャパン・フィルム)、日本映画製作者連盟から表彰を受け、同年から69年まで日本映画海外普及協会の顧問を受け持つこととなる。69年から73年にかけては、ニューヨーク近代美術館の映画部門キュレーターに就任し、日本映画の特集や、アメリカ実験映画についての巡回上映を世界各地で行うなど、意欲的な活動を継続。『小津安二郎の美学』『黒沢明の世界』など日本映画に関する多くの研究書を著した。83年には川喜多記念映画文化財団より日本映画への文化的貢献に対して第一回川喜多賞を受賞した。英語圏でのリチーの多数の映画評論・著作物は日本において2015年現在ではまだ翻訳がなされておらず、その評論活動の全容が伝えられているとは言えない。今後、国外から見た当時の日本映画を知る方法のひとつとして、また、映画そのものへのリチーの深い考察を検証する材料としても翻訳が待たれるであろう。
 リチーは一方で8mmフィルムや16mmフィルムによる実験映画、映像作品の制作も続け、62年に監督した『戦争ごっこ/Wargames』がベルギーのクノック・ル・ズート国際実験映画祭、メルボルン映画祭で入賞。64年には飯村隆彦、大林宣彦、高林陽一らとともに実験的な個人映画を制作・上映するグループ「フィルム・アンデパンダン」の活動に参加し、実験映画勃興期において日本の映画作家らの中で果たした役割も大きい。リチーのその他の映画作品では65年に監督した『Life』が世界各国で公開され、ニューヨーク近代美術館に永久コレクションとして映画フィルムが収蔵されたほか、『熱海ブルース/Atami Blues』(サウンド編集版1967年)、『五つの哲学的童話』(1967年)や、黒澤明監督についての映像作品『映画監督:黒澤明』(1975年)など多数あり、映画作家としての活動も旺盛であった。
 加えて、リチーは映画以外のジャンルにおいても評論・教育・創作活動を行った。出身である米国文学については50年に『現代アメリカ芸術論』、56年に『現代アメリカ文学潮流』を日本で出版し、54年から59年まで早稲田大学でアメリカ文学について講義を持った。その一方で、映画以外の創作として自身で小説を書き、演劇の戯曲を書き下ろしたほか、日本の伝統芸能である歌舞伎、能の脚本・演出も行った。『日本の伝統1 いけばな』(伊藤ていじと共著、1967年)『日本への旅』(1981年)など日本文化についても盛んに論じ、さらには美術、音楽、版画といった多岐にわたる分野に関心を持ち、多彩な評論・創作を展開した。映画評論を中心としながらもある種の百科事典的な活動が特徴でもあったと言えるだろう。没後、その執筆原稿はボストン大学の資料保存センター(Howard Gotlieb Archival Research Center)に寄贈された。

出 典:『日本美術年鑑』平成26年版(450頁)
登録日:2016年09月05日
更新日:2016年09月05日 (更新履歴)
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