渡辺力

没年月日:2013/01/08
分野:, (デ)

 インダストリアル・デザイナーの渡辺力は、1月8日心不全のため死去した。享年101。
 1911(明治44)年7月17日、東京に生まれる。1936(昭和11)年、東京高等工芸学校(現、千葉大学工学部)木材工芸科卒業。卒業後、群馬県工芸所にて勤務し、当時同所に招聘されていたブルーノ・タウトのアシスタントを務める。40年、母校・東京高等工芸学校嘱託となり、設計製図を講義。その間、「整理棚」(1942年)等を制作し、木工家具のデザインを手がける。43年、東京帝国大学(現、東京大学)農学部林学科選科(森林利用学)修了、同大学助手となり、航空研究所へ出向。45年3月に徴兵を受け、横須賀で入隊。同年5月末、山形県に移り、神町海軍航空隊近くの駐屯地で終戦を迎えた。49年、渡辺力デザイン事務所を設立し、独立。戦前から建築雑誌の編集部に出入りしていた関係で、建築家との交友があり、デザイナーとして独立後は清家清設計「うさぎ幼稚園」(1949年、現存せず)や「宮城教授の家」(1953年、東京)などの家具を担当している。傍ら、新制作協会展(東京都美術館)で「挟み材による家具」(1951年、新建築賞受賞)、新日本工業デザイン展(毎日新聞社主催)で「ヒモイス」(1952年)、第11回ミラノ・トリエンナーレで「テーブルとスツール(通称トリイ・スツール)」(1957年、金賞受賞)など、自身のデザインを精力的に発表していく。「ヒモイス」は、当時規格材として輸出されていたナラ材を用いて、座面と背もたれにはひもを組み、構造的にも、素材・仕上げの点からも簡素に無駄なくまとめられ、大量にかつ安価に生産できるデザインとして注目された。籐家具の山川ラタン製作の「スツール」は、夏の家具というイメージが強かった籐を一年中使えるものとした。渡辺の椅子のデザインは、日本の伝統的な建築や道具に見られる形を想起させ、これにより渡辺は、戦後の国際的なデザインシーンにおいて、日本を代表するデザイナーの一人に数え上げられるようになる。52年、日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA)発足にともない、理事に就任。53年、国際デザインコミッティー(現、日本デザインコミッティー)の設立に参画。56年には、工業デザイン視察団として渡米し、ヨーロッパを経由して帰国。インダストリアル・デザインが日本に根づき、発展する過程で重要な役割を担った。56年、松村勝男、渡辺優とともにQデザイナーズを設立(Qは「良質の仕事(Qualitatsarbeit)」を念願してつけられた)。59年、加藤達美、菱田安彦勝見勝らと財団法人クラフトセンタージャパンを創立。66年、東京造形大学室内建築科の開講に尽力、開講後は教授に就任し、後進の育成にも意を注いでいる。産業が成熟してくる1970年代以降は、服部セイコーのクロックシリーズ「小さな壁時計」(1970年)といった身の周りの製品から、第一生命ビル(現、DNタワー21、日比谷)の「ポール時計」(1972年)にみる公共空間、企業の役員室や、軽井沢プリンスホテル南館(1982年)をはじめとする、大規模なホテルの室内インテリアもデザインした。76年、紫綬褒章受章。1991(平成3)年、第19回国井喜太郎産業工芸賞受賞。2000年以降は、セイコーウオッチから腕時計の新作を発表するなど、60年余り第一線で活動した。学究肌で、デザイン活動の傍ら、家具、インテリア、建築に関する執筆も多数。著作には、『素描』(建築家会館、1995年)、『ハーマンミラー物語:イームズはここから生まれた』(平凡社、2003年)がある。
 渡辺のデザイン思想は機能主義に貫かれており、徹底して産業の立場から「工芸」を考えてきた。その思想の具現化にあたって基本となっているのは、室内に点在する椅子であり、家具である。機能的で健康な生活を実現するための家具を空間のなかに配し、室内を起点として、建築へと創造空間を拡げていくその手法によって、装飾を極力省きつつ、格調を備えた時計やインテリアで、日本の生活空間に合ったデザインを幅広く手がけ、独自の地歩を築いた。

出 典:『日本美術年鑑』平成26年版(447-448頁)
登録日:2016年09月05日
更新日:2016年09月05日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「渡辺力」が含まれます。
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