中川幸夫

没年月日:2012/03/30
分野:, (美)
読み:なかがわゆきお

 生け花作家の中川幸夫は3月30日、老衰のため香川県坂出市内の介護施設で死去した。享年93。
 1918(大正7)年7月25日、香川県丸亀市に生まれる。幼名は恒太郎。生家は代々土地持ちの農家で、母方の隅家も裕福な農家であり、祖父隅鷹三郎は樟蔭亭芳薫と号し、池坊生花の讃岐支部長を務めた。幼くして脊椎カリエスを患う。1932(昭和7)年、大阪の石版画工房へ入社、ここで映画、文学、文楽などに眼を開く。同社を6年ほどで退職したのち、大阪の印刷会社2社に務め、雑誌、映画ポスター制作などに従事。41年、身体を壊し帰郷、翌年伯母隅ひさの勧めにより本格的に池坊を習い始める。終戦後から53年にかけて、印刷会社に勤務。このころ、池坊・後藤春庭に立華を学び、草月流・岡野月香を知り草月の花に感銘を受ける。49年、丸亀市の大松屋で初個展「花個展 中川幸夫」を開催、出品作品が『いけばな芸術』第2号に掲載される。50年、「白東社」に参加。この年、池坊全国選抜展(東京都美術館)に出品。52年、第2回日本花道展(大阪・松坂屋、主催は文部省)に出品するが落選、池坊を脱退。以後、流派に属さず、個人の生け花作家となる。同年、第1回白東社展(大阪・三越)に出品(55年第3回展まで出品)。54年、モダンアートフェア(大阪・大丸、主催は朝日新聞社、第1回展)に招待出品(第2回、第3回も出品)。55年、自費出版で『中川幸夫作品集』を刊行。56年、東京都中野区江古田へ転居、半田唄子(白東社同人、元千家古儀家元)との結婚挨拶状を友人・知人に送る。六畳一間のアパートに暮し、喫茶店、バーなどに花を活けて生計を立てたという。58年集団オブジェ結成に参加。61年第13回読売アンデパンダン展に出品(第14回、第15回も出品)。68年東京での初個展を銀座・いとう画廊で開催。84年銀座・自由ケ丘画廊で個展を開催、花液を海綿を介して和紙にしみこませる手法を用いた作品をはじめて発表。この年、半田唄子死去。93年、大野一雄舞踏公演「御殿、空を飛ぶ」(横浜・赤レンガ倉庫)の舞台装置を制作。98年、1年間、山口県立萩美術館・浦上記念館で茶室のインスタレーション«鏡の中の鏡の鏡»を展示。同年、「Etre Nature」展(カルティエ現代美術財団)に写真作品15点を出品。2002年、大地の芸術祭において新潟県十日町市信濃川河川敷でパフォーマンス「天空散華 中川幸夫『花狂い』」を実施。2003年ころから郷里丸亀に転居、故郷に拠点を移していた。ザ・ギンザ・アートスペース(2000年)、鹿児島県霧島アートの森(2002年)、大原美術館(2003年)、宮城県美術館、丸亀市猪熊弦一郎美術館(ともに2005年)などで個展を開催した。作品集に上記のほか『中川幸夫の花』(求龍堂、1989年)、『魔の山 中川幸夫作品集』(求龍堂、2003年)など、評伝に森山明子『まっしぐらの花 中川幸夫』(美術出版社、2005年)、早坂暁『君は歩いて行くらん 中川幸夫狂伝』(求龍堂、2010年)、また中川幸夫をモデルとした小説に、芝木好子「幻華」(『文学界』1970年11月号)などがある。『華 中川幸夫作品集』(求龍堂、1977年)で「世界で最も美しい本」国際コンクールに入賞。1999年織部賞グランプリ受賞、丸亀市文化功労者となる。2004年、第20回東川賞(北海道東川町)を受賞。2014年にはドキュメンタリー映画「華いのち 中川幸夫」(企画、監督、編集=谷光章)が公開、各地で上映される。花の生命力そのものを鮮やかに浮かび上がらせた作品の数々で美術界からも高い評価を受けた。

出 典:『日本美術年鑑』平成25年版(411-412頁)
登録日:2015年12月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「中川幸夫」『日本美術年鑑』平成25年版(411-412頁)
例)「中川幸夫 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/204390.html(閲覧日 2024-04-25)

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