杉岡華邨

没年月日:2012/03/03
分野:, (書)
読み:すぎおかかそん

 かな書の第一人者で文化勲章受章者の杉岡華邨は3月3日午前1時16分、心不全のため奈良市の県立奈良病院で死去した。享年98。
 1913(大正2)年3月6日、奈良県吉野郡下北山村に生まれる。本名正美。1933(昭和8)年奈良師範学校(現、奈良教育大学)本科、34年専攻科を卒業後、郷里の尋常高等小学校に赴任。そこで習字の研究授業を命じられたのを機に書道に取り組み、40年に師範学校中学校高等女学校習字科教員免許状を取得(文検合格)。同年より書家辻本史邑のもとで本格的な書の勉強を始める。41年より奈良県立葛城高等女学校、43年より郡山高等女学校で勤務。この頃、国語学・国文学者の吉澤義則の著作『日本書道隨攷』や『日本書道新講』『日本国民書道史論』等から強い影響を受けてかなの道へ進むことを決意し、46年より尾上柴舟に師事、東京へ稽古に通い、柴舟が心酔する粘葉本和漢朗詠集を学ぶ。日展へは三度の落選を経て51年第7回日展に「はるの田」が初入選、その後も二度の落選を経験し、恒常的に入選するようになったのは54年第10回展の「平城京」以降と、40歳を過ぎての遅いデビューであった。57年に尾上柴舟が没すると日比野五鳳に師事し、五鳳のもとで寸松庵色紙、継色紙、西行系の古筆を学ぶ。翌年第1回新日展で西行の筆勢を彷彿とさせる「香具山」、61年第4回新日展で大字かな制作に取り組んだ「鹿」がともに特選・苞竹賞を受賞。65年より哲学者久松真一のもとに通い、思想的指導を受ける。76年日展評議員となり、78年改組第10回日展で「酒徳」が文部大臣賞、83年には「玉藻」により日本芸術院賞を受ける。広く和漢の書法を研究、とくに平安朝のかな書法を極め、宗教的精神や美学、文学的背景も含めた豊かな素養に基づき、流麗典雅で格調高い書風を確立した。84年読売書法会発足に伴い創立総務、85~88年日本書芸院理事長を務める。1989(平成元)年芸術院会員となる。95年文化功労者となり、2000年文化勲章を受章。この間の98年に回顧展「かな書の美 杉岡華邨展」を松屋銀座・心斎橋大丸で開催。この頃日本画家の中路融人との合作を手がけるようになり、同回顧展にも「最上川」を出品。同年奈良市制百周年に際し作品を寄贈したのを機に、2000年奈良市杉岡華邨書道美術館が開館、館長に就任する。01年奈良市名誉市民に推される。06年に脳梗塞で倒れるも翌年には回復、その後も制作を続け、日展には11年第43回展への「妹思ふ」まで出品、翌12年1月の「近江京感傷」が絶筆となる。13年に松屋銀座・高島屋大阪店で開催の生誕100年記念展を心待ちにしながらの死であった。
 旺盛な創作活動とともに一貫して教育、研究にも携わり、48年より大阪第一師範学校教官、50年大阪学芸大学(現、大阪教育大学)専任講師、59年助教授、70年教授となって長らく後進の指導に努め、81年名誉教授となる。この間51年より文部省内地研究員として京都大学文学部に留学し、美学美術史、中国文学史、さらに平安朝文学にあらわれた書のあり方を研究。その後も研究心は尽きず、源氏物語にみられる書の研究をライフワークとし、07年に『源氏物語と書生活』(日本放送出版協会)を上梓した。その他の主要著書は以下の通り。
『かな書き入門』カラーブックス(保育社、1980年)
『古筆に親しむ かなの成立と鑑賞』(淡交社、1996年)
『書教育の理想』(二玄社、1996年)
『かな書の美を拓く 杉岡華邨・書と人』(ビジョン企画出版社、1998年)

出 典:『日本美術年鑑』平成25年版(410-411頁)
登録日:2015年12月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「杉岡華邨」『日本美術年鑑』平成25年版(410-411頁)
例)「杉岡華邨 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/204388.html(閲覧日 2024-03-29)

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