吉村益信

没年月日:2011/03/15
分野:, (美)

 現代美術家でネオ・ダダのリーダーだった吉村益信は、3月15日、多臓器不全のため死去した。享年78。
 1932(昭和7)年5月22日、大分市で薬局を営む父益次、母幸の九男として生まれる。48年、大分第一高等学校入学。一学年上に磯崎新、赤瀬川隼がいた。高校二年の時に青木繁の画集を見て画家になることを決意。この頃から、地元の画材店キムラヤに出入りするようになる。51年、東京藝術大学受験に失敗し、武蔵野美術学校に入学。同年、大分のキムラヤで結成されたグループ新世紀群に参加し、第1回新世紀群同人展に出品する。新世紀群には、磯崎新、風倉匠、中学生だった赤瀬川原平なども関わっており、後のネオ・ダダの原型となった。52年、新世紀群野外展を若草公園で開催(56年まで)。55年、武蔵野美術学校を卒業。この頃、国分寺の旧児島善三郎アトリエに移り、日本アンデパンダン展(第7~10、12、13回)、読売アンデパンダン展(第7~14回)に出品を始める。また、55年4月に新世紀群主催の座談会に池田龍雄を招いたことをきっかけに、「制作者懇談会」や岡本太郎主宰「アートクラブ」に出席し、アヴァンギャルドの精神を吸収していった。57年、赤瀬川隼の結婚式で磯崎新に描いてもらった図面をもとにしたアトリエ「ホワイトハウス」が新宿百人町に完成。若い前衛芸術家たちが集まるようになる。赤瀬川原平風倉匠、磯崎新らに呼びかけ、60年に「オール・ジャパン」結成。しかし、本格的に活動を始める前に、篠原有司男が合流し、「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」を改めて結成する。4月には第1回展を銀座画廊で開き、吉村は折り畳み可能な「携帯絵画」を出品するとともに、ポスターを全身に巻いて街中を練り歩くパフォーマンスで注目を集める。その後も立て続けに、「安保記念イベント」(6月、ホワイトハウス)、第2回ネオ・ダダ展(7月、同上)、「ビーチ・ショウ」(7月、鎌倉安養院/材木座海岸)、第3回ネオ・ダダ展(9月、日比谷画廊)とイベントを行うが、10月に吉村が石崎翠と結婚したことで、ネオ・ダダは事実上解散する。ネオ・ダダ活動中は作品制作の余裕がなかったが、62年の読売アンデパンダン展で展示空間を埋め尽くすような作品「ヴォイド」を出品し話題となる。同年8月、国立市公民館での「敗戦記念晩餐会」、磯崎新邸での壮行会を経て、ニューヨークに渡る。
 ニューヨークでは大工やディスプレイの仕事をしながら制作を続ける。その際、他の日本人作家たちにも仕事を斡旋するなど、リーダーとしての資質を発揮。渡米当初は「ヴォイド」シリーズの制作を続けていたが、66年にカステレーン・ギャラリーで開催した個展「HOW TO FLY」では、電球を使用した作品を発表し、ライト・アートの先駆となる。同年、ビザのトラブルで帰国を余儀なくされる。帰国後は、電球やネオンを使った作品の制作を続けるが、アトリエが手狭なために、自身は図面を引くだけで制作は工場に発注する「発注芸術」と呼ばれる制作方法をとる。ライト・アートと発注芸術は、68年の第8回現代日本美術展でコンクール優賞となった「反物質 ライト・オン・メビウス」に結実する。70年の大阪万国博覧会に際しては、「貫通」という会社組織を作り、若い作家たちを雇い、彼らに活躍の場を与えた。万博のせんい館のために作られた巨大なカラスのオブジェ「旅鴉」は、のちにデュシャンの作品になぞらえて「大ガラス」と改名されたことで知られる。吉村のリーダーシップが発揮された「貫通」も、万博の終了と共に仕事の機会が減るなどして解散。テクノロジーに彩られた万博のあと、吉村は第10回現代日本美術展にサヴィニャックのポスターを元にしたオブジェ「豚・pig lib;」を出品し、新しい作風を見せる。翌72年には、サトウ画廊で個展「群盲撫象」を開催し、象の身体部位を切り落としたようなオブジェを発表する。万博前後のこの時期は、異なるスタイルで自身の代表作となる作品を次々と作り出した豊穣な時期となった。75年にこれまで様々な組織を牽引してきた実績をかわれ、国内外の作家から要請されてアーティスト・ユニオン結成に伴うまとめ役を引きうけるが、79年には事実上消滅した。精神的にも疲弊していた吉村は神奈川県秦野市の山中にアトリエを構え、アートシーンの中心から離れていった。90年代に、戦後の前衛美術の再評価が高まるなか、福岡のギャラリーとわーるで行われた石松健男の写真展「60年代ネオ・ダダと!」(1992年)や福岡市美術館の「流動する美術―ネオ・ダダの写真」展(1993年)によって、ネオ・ダダにも注目が集まる。1994(平成6)年の個展「ウツ明け元年」(佐野画廊)で「豚;Pig Lib;」を再制作し、吉村はふたたび表舞台に登場する。その後も、「ヴォイド」や「携帯絵画」などの再制作を行い、ほとんど作品が残っていなかったネオ・ダダの再評価に寄与する。2000年には地元である大分市美術館で回顧展「応答と変容 吉村益信の実験展」が開催された。

出 典:『日本美術年鑑』平成24年版(428頁)
登録日:2015年12月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「吉村益信」が含まれます。
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