土屋幸夫

没年月日:1996/09/04
分野:, (洋)
読み:つちやゆきお

 洋画家で、武蔵野美術大学名誉教授の土屋幸夫は、9月4日午前8時36分、肺気しゅのため東京都多摩市の日本医大多摩永山病院で死去した。享年85。明治44(1911)広島県尾道市に生まれ、昭和6(1931)年に東京高等工芸学校を卒業、翌年第2回独立美術展に「イゝグラの坂路」が初入選した。以後、独立美術協会には、同8年の第3回展に「尾道風景」、同十年の第5回展に「出帆」、同11年の第6回展に「静物(母性的果実)」、同12年の第7回展に「歪められたる静物の印象」、同13年の第8回展に「飛翔の幻想」が入選した。一方、同8年には、郷里の尾道市商工会議所において最初の個展を開催、同11年には、銀座紀伊国屋画廊でも個展を開いた。同12年には、糸園和三郎斎藤長三等が同9年に結成した前衛美術グループ「飾絵」の同人として参加、この年の第4回展に出品した。この当時の作品として残されている「仮装」(1936年)では、抽象表現を試みており、また「人形の行進(鬼)」(1937年)では、写実表現ながら、幻想性をつよく感じさせ、シュルレアリスムからの影響をしめしている。しかし、このグループは翌年4月に解散し、同月に結成された創紀美術協会に創立同人として参加した。同年7月の同協会京都前哨展に「果てなき嗜食」、翌年の第1回展に「哺乳の海邊」、「錯覚する者」、「苛める」を出品した。同14年には、美術文化協会創立にあたり同人として参加、翌年の第1回展に「蒐集狂的散点模様」、「睡れる提琴」、「小児季記憶のあらはれ(瀬戸内海の島々)」を出品した。同17年の第4回展まで会員として出品し、応召と戦後の復員までの中断をはさんで、同24年の第9回展まで出品をつづけた。また、戦後の同22年には、日本アヴァンギャルド美術家クラブ結成に参加し、同26年にはタケミヤ画廊で個展を開催した。同32年には、武蔵野美術大学に赴任し、後進の指導にあたるようになり、また同50年から同56年まで、現代芸術研究室を設け、ここを会場に自身の個展を開催するとともに、多くの新人にも作品発表の機会をあたえた。平成7(1995)年には、パルテノン多摩市民ギャラリーを会場に、「土屋幸夫1930ー1995展」を開催、初めての回顧展として初期から近作までを出品した。戦前の前衛画家として出発した土屋は、戦後も、アンフォルメルなど現代美術の潮流から影響をうけつつ、絵画や立体作品に、一貫した独自の造形感覚を示しつづけた。

出 典:『日本美術年鑑』平成9年版(351-352頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「土屋幸夫」『日本美術年鑑』平成9年版(351-352頁)
例)「土屋幸夫 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10648.html(閲覧日 2024-04-16)

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