井上長三郎

没年月日:1995/11/17
分野:, (洋)
読み:いのうえちょうざぶろう

 自由美術家協会会員の洋画家井上長三郎は11月17日午前2時20分、呼吸不全のため千葉県流山市の東葛病院で死去した。享年89。明治39(1906)年11月3日、神戸市浜崎通り4丁目に生まれる。同41年両親とともに大連に移り、大正13(1924)年4月まで大陸で過ごす。この間同11年に『回想のセザンヌ』を読み、啓発されるとともに絵画に興味を抱くようになる。帰国後、東京谷中の太平洋洋画研究所に通L¥中村不折に師事。鶴岡政男靉光らと交遊する。昭和元(1926)年、第13回二科展に「風景」で初入選。翌年1930年協会展に「習作(風景)」を出品して奨励賞を受賞。同年第14回二科展に「樹下清流」を出品する。以後両展に出品を続け、同5年第5回1930年協会展に「森の道」を出品して再度奨励賞を受賞。同年太平洋画会研究所が閉鎖されることとなり、同所を退く。同6年第1回独立美術協会展に「風景」「森」「厓」を出品して「森」で独立美術協会賞を受賞。同10年同会会員となる。同13年夫人とともに渡欧し、パリのグラン・ショーミエールに入りデッサンの研鎖に勉める。この間、セザンヌ生誕100年記念展を見、その制作がプッサンらの古典絵画を基礎として継承していることに触発された。同15年イタリア旅行ののち帰国し、同年美術文化協会に参加。同18年太平洋洋画研究所時代の友人であった靉光鶴岡政男松本竣介らとともに新人画会を結成。同年第4回美術文化協会展に出品した「埋葬」が軍当局の検閲により撤去され、同年9月の決戦美術展に靉光との共作「漂流」を出品したが「敗戦的」という理由から展示1日にして撤去される。同19年山梨県北巨摩郡へ疎開。同21年日本美術会の創立に参加し、同会の主催による日本アンデパンダン展に出品。また、同22年新人画会が自由美術家協会と合流したため、同会へも出品する。同25年からは読売新聞社主催の日本アンデパンダン展にも出品。「葬送曲」「東京裁判」など社会批判を含む作品を発表して注目された。一方この頃から堅実な構成力を示す静物画を描き始めている。同26年東京日本橋高島屋で「井上長三郎作品展」を開催。同27年第1回展より日本国際美術展に、同29年第1回展より現代日本美術展に出品。同30年代半ばから、激しくデフォルメさせた人体の構成による諷刺性の強い作品が制作されるようになり、同41年から「紳士シリーズ」が始められた。同55年、在住作家として板橋区立美術館で「井上長三郎展」が開催された。西洋絵画に継承される古典を認識し、自らに流れ込む東洋絵画の古典を国際化した現代に生かすべく試み、形を明確にすることを重視し、色彩の使用を自ら制限して制作する姿勢を保った。『井上長三郎画集』(昭和50年、時の美術社)、『画論集 井上長三郎』(同51年、中央公論事業出版)などが刊行されているほか、画集『靉光』(昭和40年、時の美術社)を執筆するなど画友霊靉光松本竣介などについての著述もある。

出 典:『日本美術年鑑』平成8年版(331頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「井上長三郎」『日本美術年鑑』平成8年版(331頁)
例)「井上長三郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10638.html(閲覧日 2024-04-23)

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