利根山光人

没年月日:1994/04/14
分野:, (洋)
読み:とねやまこうじん

 造形芸術に幅広く活躍し、メキシコ美術研究でも知られた美術家利根山光人は、4月14日心不全のため東京都目黒区の国立東京第二病院で死去した。享年72。大正10(1921)年9月19日東京都世田谷区深沢町3-525に生まれた。本名光男。昭和18年9月早稲田大学文学部(国漢科)を卒業、学徒出陣した。在学中から美術研究会に所属し、川端画学校に学んだ。戦後の同24年読売アンデパンダン展に出品し、同26年の第3回同展出品作「雨」「風」で本格的に画壇にデビューした。また、同25には自由美術展へも出品、同27年にはタケミヤ画廊で初の個展を開催した。同29から翌年にかけ佐久間ダムの工事現場へ入り、その体験から「佐久間ダムに寄す」(同30年)を制作発表し、一躍注目を浴びた。はやくから社会性を題材に行動的な制作を行った。同30年開催のメキシコ美術展に感動し、同34年以来しばしばメキシコを訪問、とくに古代マヤ文明に大きな啓示を受け、その後、マヤ文明の古代文様に現代のイメージを重ねる独特の作風を鮮烈な色彩のうちに展開した。この聞のメキシコに取材した作品に「太陽の神殿」(同41年)などがある。また、シケイロスらとの交友によって大壁画制作へも向い、JR横浜、東北新幹線北上駅などの壁画を手がけた。同37年には日墨文化交流に尽力した功績によって、メキシコ政府からアギラ・アステカ文化勲章を受章する。同46年、前年携わった聖徳学園川並記念講堂の緞帳「無限」で多田美波とともに建築美術への功績により吉田五十八賞を受賞、同50年には、活力ある文化批評を内蔵した幅広い造形芸術に対して日本芸術大賞を受けた。無所属の作家として画壇とは無縁な一方、同51年には音楽家の夫人とともに自宅に「アルテ・トネヤマ」音楽・絵画研究所を設け、美術教育に尽力し、またアトリエを開放して一年おきに個展を開催した。「ドン・キホーテ」シリーズや版画「ヒロシマ・ナガサキ・南京シリーズ」に見るように、精力的な制作活動の根底には、一貫して戦争体験に基づくヒューマニズムが底流しているところに利根山芸術の大きな特色があった。晩年の作品に「天馳ける」(平成2年)などがある他、千葉県松戸市の聖徳学園には、壁画「伝統」(昭和48年)をはじめ、20年以上にわたる作品群が残されている。作品集に『装飾古墳-利根山光人スケッチ集』(昭和51年)など。

出 典:『日本美術年鑑』平成7年版(345-346頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月26日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「利根山光人」『日本美術年鑑』平成7年版(345-346頁)
例)「利根山光人 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10604.html(閲覧日 2024-04-20)

以下のデータベースにも「利根山光人」が含まれます。

外部サイトを探す
to page top