矢野文夫

没年月日:1995/12/16
分野:, (日)
読み:やのふみお

 長谷川利行の評伝を著し、自らも詩、画をよくした矢野文夫は12月16日午前9時33分、肺炎のため川崎市の川崎市立井田病院で死去した。享年94。明治34(1901)年5月16日、神奈川県小田原市に生まれる。同40年一家で上京し、同41年東京市立麻布尋常高等小学校に入学。大正3(1914)年、同校を卒業して麻布中学へ入学する。同5年一家で本籍のある岩手県一関市に移るのに伴い、県立一関中学へ転校する。同8年同校を卒業して早稲田大学文学部予科に入学。同11年ローマ・カトリック教に興味を抱き、一関の天主公教会へ通い、同教会の神父を介してボードレールの生涯を知り、フランス語を学んで原書に接する。同年家庭の事情により大学を中退する。同12年5月仙台の河北新報社記者となるが同年12月に退社。翌年10月読売新聞社に入社し婦人部記者となるが翌14年9月に退社する。この頃より雑誌「詩聖」「詩と音楽」などに寄稿。同15年1月「婦女界」に入社し編集にたずさわる。このころ画家長谷川利行を知る。翌年9月「婦女界」を退社して詩作、評論活動に入る。昭和3(1928)年詩集『鴉片の夜』(香蘭社)を刊行。同9年ボードレール詩集『悪の華』の全訳本を耕進社より、また長谷川欣一との共著『ボオドレエル研究』を叢文社より刊行する。同10年文学、美術、映画を対象とする雑誌「美術手帖」(美術手帖社)を主宰創刊。同11年自ら経営する邦画社より「月刊邦画」「美術及美術人」を創刊する。同16年前年に死去した長谷川利行についての著『夜の歌―長谷川利行とその芸術』を邦画社から刊行。同18年出版界の企業整備により他社数社と合同して株式会社愛宕書房を創立してその取締役となる。この頃社団法人日本文学報国会会員となる。戦後、同24年前後は小説を多数著したが、同25年「芸術新聞」(芸術新聞社)を創刊し、翌年は戦前に5巻まで刊行しながら戦中の雑誌統合で廃刊になった「美術検討」を改題復刻する生活美術誌「色鳥」を創刊するなど、美術評論活動を再開する。また、同28年最初の個展「矢野茫土個展」を東京上野松坂屋で開催し、以後作品の発表もたびたび行う。同35年モデル小説『放水路落日―長谷川利行晩年』(芸術社)を刊行。同37年従来主宰していた「らーる(L’ART)」を改題し「色鳥美術ニュース」として芸術社から主宰創刊。同51年『放水路落日―長谷川利行晩年』に若干のエッセイを加えて改題した『野良犬―放浪画家・長谷川利行』(芸術社)を刊行する。その後もたびたび開催される長谷川利行の展覧会企画に参加、協力するとともに、自らの制作を個展で発表している。平成6(1994)年10月岩手県一関文化センターで「矢野茫土展」が開かれたほか、没後も同センターで同8年7月に「矢野文夫と茫土の世界展」が開かれ、同9年1月には東京ストライプハウス美術館で「茫土・矢野文夫全貌展」が開かれた。年譜、著作などは同展図録に詳しい。

出 典:『日本美術年鑑』平成8年版(332頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「矢野文夫」『日本美術年鑑』平成8年版(332頁)
例)「矢野文夫 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10584.html(閲覧日 2024-03-29)

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