丸木位里

没年月日:1995/10/19
分野:, (日)
読み:まるきいり

 日本画家の丸木位里は、10月19日午前11時15分、脳こうそくのため埼玉県東松山市の自宅で死去した。享年94。明治34(1901)年6月20日、現在の広島県広島市安佐北区安佐町に生まれ、飯室高等尋常小学校卒業後、絵を独学、大阪出て一時大阪精華美術学院に学んだのち、大正12(1923)年上京して同郷の田中頼璋の天然画塾に入門したが、この年の関東大震災により広島にもどった。広島では、広島県美術展覧会に出品していたが、昭和9(1934)年に再び上京、落合朗風主宰の明朗美術研究所に入門した。同11年の第8回青龍社展に「池」が初入選、翌年の第9回展にも「峡壁」が入選した。また、この頃、同じ広島県出身の靉光と親交し、同11年広島市で開催された第1回藝州美術協会展にともに出品した。同14年歴程美術協会結成に参加したが、同年の第2回展に出品した後、岩橋英遠、船田玉樹とともに脱退した。翌年福沢一郎の勧誘をうけて、唯一の日本画家として美術文化協会結成に参加、同21年の第6回展まで、出品をつづけた。また、同16年に二科展に出品していた赤松俊子と結婚。同20年、広島に原爆が投下されたことを知ると、数日後には肉親の安否をたしかめるために広島に行き、遅れてきた妻とともに惨状を目のあたりにしながら被災者の救護にあたった。戦後は、原爆の記憶がうすれていくことの批判をこめて、「原爆の図」第一部「幽霊」を完成させ、「八月六日」と改題して同25年の日本美術会主催第3回日本アンデパンダン展に出品した。このシリーズは、俊子との共同制作で同30年までに第10部が完成し、各種の展覧会にそのつど出品された。またその間、国内はもとより、同25年と同31年には、この作品をたずさえて、ヨーロッパ各国、中国などで世界巡回展を開催し、各地で反響をよんだ。同30年代からは、日本アンデパンダン展のほか、毎日新聞社主催により隔年で開催された現代日本美術展、日本国際美術展(東京都美術館)などに毎回出品した。同42年には、埼玉県東松山市の自宅の敷地内に原爆の図丸木美術館が開館、また同年第9回サンパウロ・ビエンナーレに出品した。同51年、第2回从展に、妻俊(同31年に改める)との共同制作による「南京大虐殺の図」、翌年の第3回展には「アウシュビッツの図」を出品。同54年には、第3回反ファシズムトリエンナーレ国際具象展(ブルガリア)に俊との共同制作「三国同盟から三里塚まで」を出品、大賞を受賞。同55年の第6回从展に「水俣の図」、同58年の第9回从展に「沖縄の図」のシリーズを出品した。このように、「原爆の図」シリーズ(同57年までに15部が完成)を起点に、社会性の強い作品を制作しつづけた一方、中国、ヨーロッパ各地を写生旅行し、その作品をもとに俊との三人展をたびたび開催し、剛胆な水墨表現を一貫して追求していた。

出 典:『日本美術年鑑』平成8年版(326-327頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「丸木位里」『日本美術年鑑』平成8年版(326-327頁)
例)「丸木位里 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10583.html(閲覧日 2024-04-25)

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