吉田穂高

没年月日:1995/11/02
分野:, (版)
読み:よしだほだか

 日本美術家連盟理事、日本版画協会理事の版画家吉田穂高は11月2日午後零時23分、腹部大動脈りゅう破裂のため東京都立川市の国立病院東京災害センターで死去した。享年69。大正15年9月3日東京都北豊島郡滝野川町に洋画家吉田博、ふじをの次男として生まれる。兄は版画家の吉田遠志。東京高等師範学校付属小学校、同中学校を経て昭和19年第一高等学校(旧制)理科甲類に入学する。同20年同校理科乙類に転類。このころから油彩画の制作を始める。同23年日本美術会主催第2回日本アンデパンダン展に油彩画「こむら」「秋」「あくびから」を初出品する。翌年読売新聞社主催第1回日本アンデパンダン展に油彩画を出品。同年第一高等学校を卒業する。この後も日本美術会、読売新聞社主催の二つのアンデパンダン展に出品を続け、この間同27年第20回日本版画協会展に「太陽」「星」「夕陽の街の女の子」「ハッパの子」を出品して日本版画協会会員となる。同30年米国の美術館からの招待により渡米する兄に随行してアメリカに渡り、後、キューパ、メキシコを旅行。メキシコの古代文明、特にマヤ文明の遺跡で受けた感銘が、後の制作に指針を与えた。具象表現から生命感をテーマとした抽象版画へと作風に変化が表れるようになる。同31年第1回シェル美術賞に「石と人」で応募し3等賞を受賞する。同32年母ふじを、妻で版画家の千鶴子とともに世界一周旅行をし、滞在先で大学・美術館における木版画制作の講義、デモンストレーションを行ったほか、ロスアンゼルスのランドウ画廊で個展を開催した。同年第1回東京国際版画ビエンナーレ展に「ポリネシアン」を出品。同36年1月現代写真展1960年(東京国立近代美術館)に写真「旅情・マドリッドの町はずれ」を出品。このころ写真に興味を抱き、「カメラ毎日」などの写真誌に作品を発表する。同年第1回パリ青年ビエンナーレに出品、この年リトグラフを試みる。同年37年スイス・ルガーノ国際展に「たまものA」などを出品して受賞。同年38年第5回ユーゴスラヴィア国際グラフィック・ビエンナーレ(通称・リュブリアナ国際版画ビエンナーレ)に出品し、以後同展に出品を続ける。同年アメリカ、中南米を旅行。この年、リトグラフと木版の併用技法を試みるとともに、このころアメリカで隆盛していたポップ・アートに触発されて現代にモティーフを得た作品を制作するようになる。同40年、写真製版によるリトグラフ、シルクスクリーンなど多様な技法を試み、翌年3月の銀座養清堂における個展でそれらの作品を発表。同41年コラージュによる「現代の神話」シリーズを始める。同43年を東京都電機健保会館のレリーフ壁画を制作。同44年より52年まですいどーばた美術学院(のち創形美術学校)版画科講師をつとめる。同45年写真製版による亜鉛凸版と木版の併用技法を試み、以後これを主な技法として「LANDSCAPE」シリーズの制作を始める。画面に多くのモティーフがひしめく、喧騒な画面から一転して音や動きの感じられない風景画へと移行した。同47年オーストラリア外務省の「文化賞計画」の招待によりオーストラリアを訪れ、美術学校、美術館を視察するとともに、木版画技法の紹介、作品展示を行う。同年第2回ソウル国際版画ビエンナーレに「沈黙の風景」「水辺の神話」「真昼の神話」を出品して大賞を受賞する。同48年第1回世界版画コンペティションに「NINJAPOINT」を出品して第1部特別エディション賞を受賞。同年より家をモティーフとした「現代の神話」シリーズの制作を始める。同49年ポーランドクラコウ国際版画ビエンナーレ、第2回ノルウェー国際版画ビエンナーレ、第6回イビサ・ビエンナーレ(スペイン)に出品。同51年詩画集『東天の虹』(詩・堀口大学、版画・吉田穂高)が弥生書房から刊行される。同年メキシコを旅行し、ニューヨーク、ロスアンゼルスを経て帰国。また同年第5回リエカ国際オリジナルドローイング展(ユーゴスラヴィア)に「扉のある風景A.B」を出品して国際審査員名誉賞を受賞する。同52年国際交流基金からの派遣によりグアテマラ、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジェラスの中米の国々を訪問して日本の現代版画について講演を行うとともに木版技法のデモンストレーションを行う。同年秋第1回日中友好美術家訪中団として中国を訪問する。同年日本美術家連盟によるアジア現代美術視察・調査の一環としてタイ、インドネシアを訪問。同61年キューバ芸術家連盟の招きでキューバを訪れ、帰途メキシコに立ち寄る。同62年「サンミゲル旧一番通り」により山口源大賞を受賞。同63年町田市立国際版画美術館で「吉田穂高版画展」が開催され、平成7(1995)年4月にはハンガリー美術アカデミーで「吉田穂高大回顧展」が開催された。また、歿後の平成9年1月には居住地であった三鷹の三鷹市美術ギャラリーで「吉田穂高展」が開かれた。伝統技法の紹介により国際交流にも貢献しつつ、古典的木版技法を写真、リトグラフなど多様な技法と併用して新たな表現の可能性を探り、現代の感性に訴える知的な画面構成を行った。著作も多く、主要著書に『たのしい造形』(美術出版社 昭和43年)、『版画 新技法読本』(駒井哲郎らと共箸、美術出版社 昭和38年)、『版画の技法』(駒井哲郎らと共著、美術出版社 昭和39年)などがある。

出 典:『日本美術年鑑』平成8年版(328-329頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「吉田穂高」『日本美術年鑑』平成8年版(328-329頁)
例)「吉田穂高 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10571.html(閲覧日 2024-03-19)

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