山本陶秀

没年月日:1994/04/22
分野:, (陶)

備前焼き作家で轆轤の達人と称された国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の山本陶秀は、4月22日午後零時35分肺炎のため岡山市の岡山赤十字病院で死去した。享年87。明治39(1906)年4月24日、岡山県和気郡伊部町伊部(現・備前市伊部)に農業を営む父源次郎、母君の次男として生まれる。本名政雄。大正8(1919)年伊部尋常高等小学校を卒業し、同10年当時伊部の窯元として最大手だった黄薇堂の見習いとなって陶芸の道に入る。同12年伊部の窯元桃渓堂へ移り花器、花入れ細工物等を制作する本格的な作陶を始める。昭和8(1933)年、伊部に開窯して独立、同13年楠部禰弌に入門する。同14年第6回中国四国九県連合工芸展に花入れを出品して優良賞受賞。同16年にも同展で受賞する。同18年当時軍需省の管轄にあった国立京都窯業試験場の図案部長水町和三郎の発案により備前焼緋襷を応用した南方むけ食器を生産することとなり、その制作者に選ばれ、軍需省嘱託として備前焼きの皿などの食器制作にあたった。同23年国の技術保存認定を受ける。同26年北大路魯山人、イサム・ノグチらが伊部を訪れた際、交遊し作陶の面でも多くを学ぶ。同29年岡山県重要無形文化財作家に指定される。同30年第2回日本伝統工芸展に「備前旅枕花入」で初入選。以後同展に出品を続ける。同34年ブリュッセル万国博覧会に「緋襷大鉢」を出品してグランプリ金賞を受賞。また、同年日本伝統工芸会の正会員となる。同39年はじめて欧州旅行に発ち、オランダ、フランス、ドイツ、イギリスを訪れて美術品、史迹、古窯跡とともに現代の欧州陶芸を視察し、備前焼の価値を再確認する。同42年韓国へ赴きソウルを中心に歴史ある窯元を視察。翌43年には台湾、香港、マレーシア、シンガポール等東南アジアの視察旅行に赴く。同44年地元作家、窯元、陶商の団体である備前焼陶友会副会長に就任。同45年日本工芸会理事となる。同47年岡山県文化賞受賞。同51年「陶歴55年記念備前山本陶秀茶入展」を東京日本橋三越で開催し、同展を訪れた谷川徹三に評価されて翌52年毎日芸術賞受賞。同58年「山本陶秀喜寿記念展」を東京日本橋三越、大阪心斎橋大丸、小倉井筒屋で開催。同61年「山本陶秀傘寿記念展」を岡山天満屋、岐阜近鉄百貨居、大阪京阪百貨店、東京東急百貨店、小倉井筒屋で開催。同62年国指定重要無形文化財保持者「備前焼」に認定される。その後も平成元(1989)年東京日本橋三越で「人間国宝山本陶秀展」、同2年広島福屋で「作陶70年人間国宝山本陶秀展」、同3年名古屋松坂屋および東京日本橋三越で「人間国宝 備前山本陶秀展」を開催するなど多くの個展により作品を発表した。桃山期の「間合い」を重んじた備前焼に学び、華麗な作風を示した金重陶陽、大胆豪放な趣で知られた藤原啓という備前焼の人間国宝の作風に対し、陶秀は熟練を極めた轆轤技術によって均整のとれた端正、清楚な作品を制作した。画集に『備前山本陶秀作品集』(毎日新聞社 昭和49年)、『人間国宝 備前山本陶秀』(山陽新聞社 平成4年)等がある。

出 典:『日本美術年鑑』平成7年版(346-347頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「山本陶秀」『日本美術年鑑』平成7年版(346-347頁)
例)「山本陶秀 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10539.html(閲覧日 2024-03-28)

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