佐野猛夫

没年月日:1995/10/02
分野:, (工,染)

 京都市立芸術大学名誉教授で日本芸術院賞受賞のろうけつ染作家の佐野猛夫は10月2日午前4時26分、がん性腹膜炎のため京都市左京区の石野病院で死去した。享年81。大正2(1913)年10月22日、滋賀県守山町(現守山市)に生まれる。母あいの生家は西陣の刺繍業者であった。長浜尋常高等小学校在学中の大正12年ころから絵に熱中するようになり、同14年同校を卒業した翌年、京友禅の仕事をしている京都の兄宅に同居する。昭和2(1927)年京都市立工芸学校図案科に入学。山田江秀、山鹿健吉(清華)らに師事する。同5年ころより懸賞図案に応募し入賞する。同7年京都市立美術工芸学校を卒業。一時服飾図案を志したが、創作図案の道を選び、同8年第20回商工省工芸美術展図案部に創作図案「祭礼の図額」で初入選。同年第14回帝展に「大阪天満祭ノ図鑞染壁掛」で初入選。翌年の帝展には落選するが、同年山鹿清華の東宝劇場大緞帳制作に参加したことから、以後東京、大阪、神戸などで緞帳制作に携わるようになる。同10年1か月ほど沖縄に滞在して紅型や沖縄の工芸を学ぶ。同年に開設された京都市美術展に「鑞染壁掛琉球ノ女」を出品。また同年京都市美術工芸学校卒業の新人染織家集団「木旺社」の結成に参加する。同11年蒼潤社第1回美術工芸展で工芸奨励賞受賞。同12年第2回京都市展に「請雨の図染額」を出品して市長賞を受賞、同年第1回新文展に臈纈染四曲屏風「鳴禽の図」を出品。同13年第2回工芸院展に風呂先屏風「沼」を出品し工芸院賞を受賞。同15年紀元2600年奉祝展に出品するとともに、山鹿清華皆川月華、稲垣稔二郎らによって結成された京都染織繍芸術協会に参加。同17年第7回京都市展に「土に遊ぶ染屏風」を出品して市長賞受賞。翌年より日本美術及工芸統制協会により戦時下の統制が始まるが、文部省より特別待遇の査定を受け、独自の研究を継続する。同19年奉祝京都市展に「屏風雛二題」を出品して受賞。戦後、同20年第1回京展に「木綿を織る」を出品して市長賞第二席となり、以後も同展に出品したほか、翌年から開催された日展にも参加。同21年秋、第2回日展に臈纈屏風「童女の図」を出品して特選となる。同23年初個展を京都河原町三条の朝日会館で開催。同年は京展、日展に出品せず新匠工芸会展に「蠟染布」を出品して新匠工芸会賞を受賞し同会会員に推される。また、同年京都府主催輸出工芸美術展において「蠟染更紗布」「立花壺文広幅染布」で商工大臣賞を受賞。同27年小合友之助が日展処遇問題により新匠会を退会したため、日展、新匠会を退くが、小合自身からも、また岩田藤七高村豊周らからも日展復帰を促され、同29年第10回日展に臈纈「風景屏風」を出品して特選受賞。この頃多様な布地を用いたり、実用性を離れた自由な表現を試みたりし、昭和30年代半ばを過ぎると自然物の写実に基づく図案化から抽象図案へと展開を示した。同36年京都市立芸術大学工芸科染織専攻の助教授に就任、同38年同教授となった。同39年より自由な蠟の操作を求めてバック・ワックス技法による制作を試み、同42年京都市立美術大学のインドネシア調査旅行に参加してジャワ・パリ島を中心に染織技法の調査を行うなどして、研究を進めた。同44年第1回改組日展に「黒い潮」を出品して文部大臣賞受賞。同48年第4回改組日展に「噴煙の島」を出品して日本芸術院賞を受賞、同49年社団法人日本学士会よりアカデミア賞を受賞する。同51年よりたびたび日展常務理事をつとめたほか、同57年京都工芸美術作家協会理事長に就任した。同58年京都工芸界の高度な水準の維持に貢献し、優れた創作と育成活動をしたことが評価されて京都新聞文化賞を受賞。同63年京都府文化賞特別功労賞を受賞した。平成2(1990)年京都府文化芸術会館の主催により自選回顧展を開催。同3年作品集『佐野孟夫蠟染作品』(ふたば書房)を刊行した。伝統的な臈纈染を基礎に、より自由な表現を目指して多様な技法の研究により独自の手法を築き、水、潮をモティーフとした抽象的な作品に斬新な感性を示した。昭和41年より下村良之介、辻晋堂らとともに版画グループ「八ピキの泉」展に参加し銅版画も制作。著書に『染織入門』(昭和44年、保育社)、エスキース集『佐野猛夫倉創作の周辺』(同51年、マリア書房)がある。

出 典:『日本美術年鑑』平成8年版(325-326頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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