岡行蔵

没年月日:1990/07/12
分野:, (美,関)

装潢師岡行蔵(2代目岩太郎)は、7月12日午後零時16分、心不全のため京都市東山区の京都専売病院で死去した。享年80。
初代岩太郎の三男として、明治43(1910)年3月9日京都市で生まれる。昭和10年三重県伊賀上野の重藤芙美と結婚。昭和12年2代目岩太郎を襲名した。
昭和22年頃から国宝、重要文化財などの国指定文化財を中心に古文化財の保存修理に従事、多くの名品の修復を手掛けて、昭和58年岩太郎の名跡を長男興造に譲るまで、工房全体の運営を監督していた。その功績は、職人の手技と伝統的美意識を守る一方で、素材の復元開発や美術品の調査記録を積極的に取入れ、伝統的表具師を近代的な絵画修復の専門職として発展させた事である。行蔵の父、初代岩太郎は、新画の表装に携り多くの日本画家と親交を結び、彼らの美意識を吸収することに熱心であったが、昭和5年に開かれたイタリア展のための表装には特別に裂を誂えたり、同年に西本願寺から売り出された三十六人歌集(石山切)の多くを表装し掛軸に仕立て、そのために桐材で太巻添え軸を工夫したり、伊勢集の二頁続きの料紙には両面装丁を工夫するなど、装潢技術の応用に早くから進取の態度を見せるかたわら、前田家から売り出された古裂を求めるなど古画や古裂にも積極的な興味を寄せていた。このような初代岩太郎の、新技術に対する積極性、表装に取り合わせる裂に対する執念に感化された行蔵は、戦後古画の修復を主にするようになってその技量を開花させて行く。まず、絵が描かれた時代に近い雰囲気を持つ裂の復元に取り組む。描かれた時代にはなかった金欄で表具された平安、鎌倉絵画に対する反省から、修理に際しては、長年収集の古裂の中から絵画の製作時に近いと思われる裂を取り合わせ、いわゆる名物裂一辺倒の取り合わせを控え、それぞれの時代に近い装丁を心掛けることを念願としていたのを、いま一歩進めて裂を復元してより理想的な取り合わせを実現し使用した。幸い西陣の広瀬敏夫の協力を得て、綾地綾文の応夢衣、欄地綾文の大燈国師墨蹟関山字号の中廻し裂から始め、昭和58年までには、数十種類の裂を復元し使用している。裏打ちなどに不可欠な手漉和紙についても、吉野や近江の紙漉と協力して、古法による製造の復活や雁皮と楮の混抄紙の開発を行う一方、古画の修復に不可欠な材料についても、絹本絵画の欠失部補修に使用する絵絹の復元を行うかたわら、あたらしい補絹の人工劣化法を開発するため当研究所に支援を求め、その成果として絵絹を原子力研究所の電子線によって人工劣化させる方法を完成した。伝統的素材の科学技術による加工と言う点で画期的な出来事であった。また。絵画や書跡・文書などの修復に、早くからエックス線透過写真、赤外線反射写真、紫外線蛍光および反射写真による調査法を取入れ、美術史研究者と共に修理中しか見ることの出来ない本紙の状態を観察することによって(例えば、来振寺蔵五大尊像の裏面)、赤外線写真でのみ半読可能な銘記が発見されるなど、貴重な発見をしてきた。
昭和22年から58年までに修復をした主な美術品
天球院方丈障壁画 昭和25年度、真珠庵方丈障壁画 昭和26年度、平家納経 昭和31~34、45~46年度、信貴山縁起絵巻 昭和34年、47~48年度、大燈国師画像 昭和38年度、紫式部日記絵詞 昭和41年度、瓢ねん図 昭和42年度、両部大経感得図 昭和44~46年度、伴大納言絵詞 昭和44~46年度、粉河寺縁起 昭和46~47年度、五大尊像 昭和51~53年度、伝源頼朝像 昭和54~55年度、伝平重盛像 昭和54~55年度、王昭君図 昭和56年度
昭和24年から25年まで京都表装文化協会会長
昭和33年から39年まで京都表装文化協会副会長
昭和38年から昭和47年までと、昭和54年から58年まで国宝修理装潢師連盟理事長
昭和51年11月紫綬褒章受章
昭和55年から昭和58年まで、京都国立博物館文化財保存修理所 修理者協議会会長
昭和56年IIC(国際文化財保存学会)フェロー会員
昭和58年勲四等瑞宝章
昭和58年京都府文化財保護基金から第1回功労賞

出 典:『日本美術年鑑』平成3年版(300-301頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「岡行蔵」『日本美術年鑑』平成3年版(300-301頁)
例)「岡行蔵 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10502.html(閲覧日 2024-04-19)
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