米澤嘉圃

没年月日:1993/07/29
分野:, (学)
読み:よねざわよしほ

 東洋美術史家で、東京大学名誉教授、武蔵野美術大学名誉教授、元武蔵野美術大学長、国華社主幹の米澤嘉圃は、7月29日午前8時15分、肝機能障害による呼吸不全のため、東京都新宿区の慶応大学病院で死去した。享年87。明治39年6月2日、父万陸、母貴勢子の長男として、秋田県鹿角郡にて出生、芳男と命名された。4人の姉がある。幼年は、鉱山技師であった父の転勤にともない、秋田・東京・茨城・大分・東京と居を移し、大正13年3月、曉星中学校を卒業。つづいて昭和2年3月、福岡高等学校を卒業後、病弱のため一年浪人し、3年4月、東京帝国大学文学部美学美術史学科へ入学した。かつて内藤湖南の父十湾の弟子であった板橋忠八に漢詩を学び、書画を愛蔵していた父万陸の文人趣味が、美術史学を専攻する機縁となった。6年3月、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業後、同年4月より、東京帝国大学文学部副手となり、同時に同文学部大学院へ進んだ。同年6月、父万陸の死去にあたり芳男を嘉圃と改名している。この間、大学において教授瀧精一の指導をうけ、7年、処女論文「狩野正信の研究」を『国華』に発表した。8年5月、文部省重要美術品等鑑査事務嘱託となり、著名な収集家の所蔵品を調査して鑑識眼を養い、10年6月、東方文化学院助手に迎えられる。この頃「田能村竹田と蘐園学派」を『国華』に発表したが、直載な鑑識と画家の精神の洞察とが遊離しない米澤の美術史学の形成を知る。この間、8年3月に、父に続いて母を失う。9年2月、加藤信子と結婚。以後、二男一女をもうけるが長男長女を幼少で失った。東方文化学院助手となって以降、中国絵画研究に本格的に没入し、13年3月、東方文化学院研究員となり、この間、中国上代の作画機構や絵画思想に関する多くの論文を『東方学報(東京)』・『国華』等に発表。15年9月から11月には、初めて中国各地(大連・奉天・北京・大同)と朝鮮を視察し、山西の高地で眼にした黄土景観に感慨をうけ、風土と美術との関係に思索を深める端緒となった。17年10月、『国華』の編集員となり、戦後、東方文化学院が経済的基盤を失うと、23年4月、結城令聞・窪徳忠とともに、東京大学東洋文化研究所研究員へ転じ、27年10月、文部技官を併任し、40年5月まで東京国立文化財研究所美術部に研究員として所属した。24年5月以降、東京大学教授を併任し、さらに美術史学会設立に関わり常任委員となった。東大教授、『国華』編集委員、美術史学会常任委員として、以後、長きにわたって、東アジア全般の美術の動向を視野におさめた数々の論文と作品紹介を『国華』を中心に発表し、戦後における東洋・日本の美術史研究を領導した。42年3月、東大を定年退官するまで、国内はもとより海外における中国絵画の調査も精力的に実施し、35年5月から6月にかけて東洋文化研究所研究員の鈴木敬川上涇とともに台湾を訪問、当時、台中にあった故宮博物院の所蔵絵画約1500件(約5000点)を調査し、37年には、戦後はじめて、中華人民共和国の招待をうけ、美術史研究者団(長広敏雄・藤田経世・宮川寅雄・吉沢忠・米澤嘉圃)を組織し団長として訪中、12月から翌1月まで、北京故宮博物院をはじめ、上海・南京・西安・広州の各博物館で、中国絵画を調査し、各地の国立美術学院を視察した。41年5月から6月、再度、中華人民共和国を訪問し、南京・蘇州・上海・杭州を巡礼し調査し、同年9月から10月、日本経済新聞社の企画する北斎展に随行し、モスクワ・レニングラードに滞在、モスクワでは雪舟と文人画について二度にわたり講演した。この間、東京大学文学部、東京大学教養部、金沢大学文学部、名古屋大学文学部で教鞭をとって後進の指導にあたり、講談社『世界美術体系』の中国美術編を編集して中国美術の啓蒙につとめている。学会関係としては、美術史学会常任委員のほか、27年4月から44年10月まで、日本学術会議東洋学研究連絡委員会委員、36年から晩年まで東方学会評議員をつとめ、とくに37年から41年まで、美術史学会代表として指導力を発揮した。42年3月、東京大学を定年退官し、同4月から武蔵野美術大学教授をつとめた東京芸術大学でも教鞭をとった。同5月に東京大学名誉教授となる。44年7月には武蔵野美術大学学長代行、49年4月より同大学評議員となり、53年3月、同大学を定年退職した。同6月、武蔵野美術大学名誉教授となる。退職後も人望あつく、同12月、武蔵野美術大学ならびに武蔵野美術短期大学の学長に迎えられ、学校法人武蔵野美術大学理事となって学校の運営に携わっている。この間、42年8月から9月、アメリカ、ミシガン大学で開催された第27回東洋学者会議へ出席し、石濤について発表、鈴木敬とともにアメリカ各地の美術館・個人コレクションを調査したほか、48年8月~9月、欧州を旅行し、パリのチェルヌスキー美術館、ストックホルム極東美術館等、各地の美術館を訪れた。執筆活動も盛んで『国華』を中心に数々の論文と作品紹介を発表するとともに、朝日新聞社刊行の『東洋美術』、小学館刊行の『原色日本の美術』、講談社刊行の『水墨美術体系』、小学館刊行の『名宝日本の美術』等、主な美術全集の編集委員・監修者として尽力し、学問の啓蒙につとめている。文化財行政にも大きく寄与し、25年12月、文化財専門審議会、文化財保護審議会(改正後)の専門委員(絵画彫刻部長)、47年7月、高松塚総合学術調査会委員、同11月、東京国立博物館評議会評議員、55年11月、文化財保護審議会委員などの要職を歴任し、長らく国宝・重要文化財の指定に深く関与している。52年4月、勲二等旭日中綬章をうけた。52年8月、国華主幹となって以降、平成元年の『国華』創刊百年記念事業の実現に老齢を省みず尽力し、『国華論攷精選』上・下巻の出版、「室町時代の屏風絵展」(於東京国立博物館)の開催、「特輯東洋美術選」上・下(『国華』1127~28号)、「国華賞」の創設を果たし、新たに明治美術を『国華』掲載の対象とする指針を定めた。米澤の研究対象は、中国古代より現代までの絵画全般から朝鮮・日本の絵画におよび、文献を駆使した基礎研究を徹底して行う一方で、それまでの作品から遊離した高踏的な美学や画家の系統論に終始していた中国絵画史を、作品の実査と鋭い鑑識にもとづいて再検証し、実証的な近代学としての水準に高めた功績はきわめて大きい。具体的な形の変化に中国美学の最高理念をなす気韻論の変遷をあとづけながらも、作品分析の隘路に陥ることのない米澤の統一的視点に立った実証的研究は、近代における西洋美術の方法論を直接的に応用する試みと一線を画している。共感をもって語られる画家の精神の洞察と中国の自然や風土への深い見識こそが、『国華』誌上における膨大な数の優れた作品紹介とともに、その研究を支える母胎であった。唐代の画家呉道玄や明清の文人画家、南宋の繊細な絵画への愛着は、豪放磊落かつ繊細な審美眼をあわせもつ米澤の人柄を偲ばせる。日本美術についても東アジアを視野におさめた広い観点から検証する必要性を唱え、今日における研究動向の指針となっている。以下、主要著作と主要論文を年代順に掲載する。主要論文はすべて『米澤嘉圃美術史論集』に収録されている。米澤の執筆全般については『米澤嘉圃美術史論集(下巻)』に附す戸田禎佑編「著作目録」がある。尚、武蔵野美術大学美学美術史研究室米澤先生の喜寿を祝う会編「米澤嘉圃先生年譜・業績目録」も参照されたい。

主要著作
『中国絵画史研究(山水画論)』
(東洋文化研究所、昭和36年3月)(平凡社、昭和37年)
『世界美術体系 8 中国美術』編集
(講談社、昭和38年12月)
『世界美術体系 10 中国美術』編集
(講談社、昭和40年5月)
『東洋美術 1 絵画 1』共編
(朝日新聞社、昭和42年4月)
『東洋美術 2 絵画 2・書』共編
(朝日新聞社、昭和43年8月)
『水墨画』(原色日本の美術11)共著
(小学館、昭和45年4月)
『請来美術(絵画・書)』(原色日本の美術29)共著
(小学館、昭和46年9月)
『八大山人・揚州八怪』(水墨美術体系11)共著
(講談社、昭和50年5月)
『白描画から水墨画への展開』(水墨美術体系1)共著
(講談社、昭和50年12月)
米澤嘉圃美術史論集(上)巻』
(国華社、平成6年6月10日)
米澤嘉圃美術史論集(下)巻』
(国華社、平成6年6月10日)
主要論文
狩野正信の研究
『国華』494・495・496号(昭和7年1・2・3月)
田能村武田と蘐園学派
『国華』540・541・542号(昭和10年11・12月、11年1月)
東洋画の画布(Bildtafel)の形成に就いて
『国華』654・655号(昭和21年9・10月)
中国近世絵画と西洋画法
『国華』685・687・688号(昭和24年4・6・7月)
費丹旭筆美人図について『国華』701号(昭和25年8月)
李蝉の花卉画冊に就て-揚州八怪論-
『国華』722号(昭和27年5月)
張風とその芸術 『大和文華』18号(昭和31年1月)
中国古代における顔料の産地
東京大学『東洋文化研究紀要11冊』(昭和31年11月)
中国の美人画
平凡社『中国の名画-中国の美人画』(昭和33年5月)
李迪の生存年代についての疑問
『国華』804号(昭和34年3月)
長谷川等伯筆松林図の画風について
『国華』814号(昭和35年1月)
中国絵画史における持続と変化-序にかえて-
講談社『世界美術体系(8)中国美術1』(昭和38年12月)
禹之鼎筆楽春園図巻 『国華』870号(昭和39年9月)
中国絵画の歩み
講談社『世界美術体系(10)中国美術3』(昭和40年5月)
書法上からみた石濤画の基準作
『国華』913号(昭和43年4月)
李森筆鬼子母劫鉢図巻について
『国華』921号(昭和43年12月)
東アジアにおける群像表現
『国華』963・968号(昭和48年11月、49年5月)
中国古代説話画の表現方法
岩波書店『文学』42~48号(昭和49年)
徐渭と八大山人
講談社『水墨美術体系11』(昭和50年5月)
漢代彫刻の動態表現 『国華』1000号(昭和52年8月)
中国の金銀泥画
朝日新聞社『光悦書宗達画金銀泥絵』(昭和53年3月)
寒林山水図屏風覚書 『国華』1042号(昭和56年5月)
現代中国美術の群像表現-莊兆和作難民図の場合-
『国華』1051号(昭和57年5月)
能阿弥画をめぐって 『国華』1060号(昭和58年2月)
黄土の思出-その色と形-
『国華』1076号(昭和59年9月)
雲中麒麟図(絵紙)-呉道子の画風を偲んで-
『国華』1078号(昭和59年12月)
気韻生動考 『国華』1110号(昭和63年1月)
中国古代の画魚 『国華』1127号(平成元年10月)
正倉院の山水画をめぐる諸問題
『国華』1137号(平成2年8月)
気韻生動の源流を探る-「古代」分期への試み-
『国華』1142号(平成3年1月)
唐代における「山水の変」 『国華』1160号(平成4年7月)
中国絵画における詩的表現
『国華』1168号(平成5年3月)
中国古代における器物の図形-「空間構成」
『国華』1171号(平成5年6月)
上林苑闘獣図の画風-書と画の筆法-
『国華』1178号(平成5年11月)

出 典:『日本美術年鑑』平成6年版(328-330頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月26日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「米澤嘉圃」『日本美術年鑑』平成6年版(328-330頁)
例)「米澤嘉圃 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10495.html(閲覧日 2024-04-16)

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