工藤哲巳

没年月日:1990/11/12
分野:, (造形)

東京芸術大学教授の造形作家(絵画、オブジェ)工藤哲巳は、11月12日結腸がんのため東京都千代田区の三楽病院で死去した。享年65。昭和10(1935)年2月23日兵庫県加古郡に生まれる。祖父は青森県長橋村村長をつとめ、両親はともに画家で父工藤正義は新制作派協会に属した。同20年父没後岡山を移り、岡山・操山高校卒業後、同29年東京芸術大学油画科に入学し同33年卒業した。存学中から抽象画や前衛的なオブジェを手がけ、同32年の東京・美松画廊でのハプニング「反芸術」をはじめ、同32~37年の間、読売アンデパンダン展、グループ「鋭」展を通じ、「インポ哲学」を唱え既成の観念や概念に激しく挑んだ。同37年、アジア青年美術展でグランプリを受賞し、同年夫人と渡仏、以後パリを拠点にヨーロッパ各地で制作発表を行い、「あなたの肖像」シリーズを展開する。また、同37年にはパリ・ビエンナーレ展日本部門に出品し、会場内で丸刈り姿であやとりをする「ヒューマニズムの腹切り」のパフォーマンスで西欧人の度肝をぬいた。1970年代に入ると、「環境汚染・養殖・新しいエコロジー」のシリーズを展開、同51年にはカーニュ国際フェスティヴァルでグランプリを受賞、翌年のサンパウロ・ビエンナーレ展には日本から4名の出品作家の一人として参加した。同62年家族をフランスに残したまま帰国し、東京芸術大学教授(絵画科・油画)をつとめていた。一連のシリーズとして他に、「増殖性連鎖反応、融合反応」シリーズ、「カゴ:綾取り・瞑想」シリーズ、「デッサン:制度としての色紙」シリーズ、「前衛アーティストの魂」シリーズ、「天皇制の構造」シリーズがあり、モニュメントに「脱皮の記念碑」、映画に「脱皮の記念碑」(撮影・吉岡康弘)がある。
略歴
1935年 青森県北津軽郡長橋村村長の初孫として生れる。出生病院は大阪。両親は共に画家。父、工藤正義は新制作会友。
1945年 父の死。母は岡山に移り、教師として生計を立てる。
1953年 岡山操山高校卒業。
1954年 東京芸術大学入学。のちの妻弘子と出会う。
1957年 ハプニング「反芸術」美松画廊(東京)。
1958年 東京芸術大学卒業。
1957~62年まで、読売アンデパンダン展、グループ「鋭」展で活躍、「インポ哲学」を唱え既成の観念や概念に挑戦。
1961年 「現代美術の冒険」展招待出品、東京国立近代美術館。
1962年 「アジア青年美術展」出品、グランプリ受賞、妻弘子と共にパリに渡る。以後パリを拠点にヨーロッパで活動する。

ハプニング「インポ哲学」、レイモン・コルディエ画廊(パリ)。ロベール・ルベルとアラン・ジュフロワ共同企画「コラージュとオブジェ」展招待出品、セルクル画廊(パリ)。
ジャン=ジャック・ルベル企画によるハプニング「カタストロフ」に参加。
「あなたの肖像」シリーズはじまる。
1963年 パリ・ビエンナーレ、日本部門に出品。
会場のパリ市立近代美術館でハプニング「ヒューマニズムの腹切り」、「ヒューマニズムの壜詰」を行い、“世界的異議申立者”と評される。
1964年 ヴィム・ビーレン企画による「ニュー・リアリスト」展招待出品、ハーグ、ウィーン、ベルリン、ブラッセル各美術館(~65年まで)巡回
。ハプニング「インスタント精液」、(ジャン=ジャック・ルベル企画による“ワーク・ショップ”で、パリのアメリカン・センター)。
1965年 パリ・ビエンナーレ、フランス部門出品。
ジェラール・ガシオ=タラボ企画「物語的具象」展。
アラン・ジュフロワ企画「オブジェトゥール」展招待出品。
個展、及びハプニング、J画廊(パリ)。
1966年 サロン・ド・メエ及びサロン・グラン・ジュンヌ招待出品(~80年まで)及びハプニング「あなたの肖像」。
アムステルダム、パリ、ヴェネチア(サン・マルコ広場)でハプニング。
個展、20画廊(アムステルダム)、テーレン画廊(エッセン)。
1967年 個展、マチアス・フェルス画廊(パリ)。
ハロルド・ゼーマン企画「サイエンス・フィクション」展招待出品、(ベルン、パリ、デュッセルドルフ各美術館巡回、~68年まで)、「オブジェ67」展、マチアス・フェルス画廊(パリ)及びマルコニー画廊(ミラノ)。
ジェラール・ガシオ=タラボ企画「問いの世界」展招待出品、及びハプニング「脱皮の花園ダンスパーティ」(パリ、市立近代美術館)。映画、「あなたの肖像」(ファン・ザイレンと)。
「オランダ・コレクター」展(アインホーフェン美術館)。
1968年 5月革命。
個展、ミッケリー画廊(アムステルダム)。レジェ画廊(マルモ、ゴートボルグ)。
パリ、アイントホーフェン、ゲント、デュッセルドルフ、カッセルでの「マニフェスト展」に参加。
「電子回路の中での放射能による養殖」シリーズ発表。
オブジェ大作「若い世代への讃歌」制作。
パリ、エッセルでハプニング。
1969年 一時帰国。千葉房総鋸山に岩壁レリーフ「脱皮の記念碑」制作。9月10日壱番館画廊(東京)で「一日展」。
毎日現代美術展出品。
映画「脱皮の記念碑」(~70、撮影・吉岡康弘)。
1970年 最初の大展望展が開かれる。クンストハーレ・デュッセルドルフ。
「ハプニングとフルクサス」(~71、ハロルド・ゼーマン企画)に招待され参加、クンストハーレ・ケルン。
映画「泥」(シナリオ、イオネスコ)のため、美術装置担当。
「イオネスコの肖像」制作。
「環境汚染・養殖・新しいエコロジー」シリーズ始る。
1971年 「絵画とオブジェ’71」展招待出品、パリ・ガリエラ美術館。毎日現代美術展出品。
1972年 「フランス現代美術の12年」展(ポンピドー展)に日本の作家としてただひとり招待出品、パリ・グランバレ。
個展(展望1960~70)アムステルダム市立近代美術館。
1973年 個展、マチアス・フェルス画廊、ボーブール画廊(パリ)。
1974年 「日本・伝統と現代」展招待出品、(~75)。
クンストハーレ・デュッセルドルフ、ルイジアナ美術館(デンマーク)。
1975年 個展、ヴァルゼッキ画廊(ミラノ)。
「ある系図」(岡山の生んだ異才とその周辺)展、岡山操山高校・28会主催、葺川会館。
1976年 カーニュ国際絵画フェスティヴァルでグランプリ受賞。ヴェネチア・ビエンナーレ出品。
パリ・ARC・2での「箱」展に招待出品。
1977年 個展、ボーブール画廊、ヴァロア画廊(パリ)。
ジェラール・ガシオ=タラボ企画「神話と現実」展招待出品、(パリ・ARC・2)、サンパウロ・ビエンナーレで特別名誉賞。
「パリ・ビエンナーレ’59~’67」に招待出品。CNAC(パリ)。
ハプニング「危機の中のアーティストの肖像」(ボーブール画廊)。
「環境汚染の中の肖像」サンパウロ・ビエンナーレ展。
パリ・ポンビドーセンター開館記念展示に「環境汚染・養殖・新しいエコロジー」陳列。
1978年 ドイツ文化交流基金により1年間ベルリンへ招待される。
個展、ウンダーランド(ベルリン)、ベルシャス画廊(パリ)。
ハプニング、セレモニーをディオゲネス劇場とウンダーランド画廊で行う(ベルリン)。
ビデオ「工藤のセレモニー」を制作(ベルリン)。
ベルシャス画廊では、セレモニー「無限の綾取り」。
「カーニュ大賞受賞者」展(パリ・ARC・2とカーニュ)出品。
「パリ・ビエンナーレ’59~’73」展出品、西武美術館(東京)。
1979年 個展、ジャド画廊(コルマール)、ベルシャス画廊(パリ)、青年文化センター(メッツ)。
それぞれセレモニー「無限の綾取り」を行う。
ジェラール・ガシオ=タラボ企画「フランス芸術の傾向’68~’79」展招待出品。
セレモニー「灯は消えず」を行う(パリ・ARC・2)。
1980年 「現代芸術見本市」パレ・デ・ボザール(ブラッセル)。
「アクロシャージュ4」展、パリ・ポンピドーセンター。
セレモニー「灯は消えず」を行う。
7月、ウナック・サロンで「幻の画家工藤哲巳-この一点を囲んで」
6月入院、8月アルコール中毒全快。
「サイエンス・未来とサイエンス・フィクション」展招待出品(リル市主催)。
「パニック」展招待出品(レンヌ文化センター)。
サロン・モンルージュ招待出品(モンルージュ)。
1981年 個展、ヨーレンベック画廊(ケルン)、セレモニー「灯は消えず」。
ラルース社発行「大百科事典」(80年2月発行)にエコロジーシリーズ掲載。
新作個展、草月美術館(東京)。
アラン・ジュフロワによる企画展「何処へ」、アムブロワーズ画廊(パリ)。
1981~82年 「1960年代-現代美術の転換期」展、東京国立近代美術館、京都国立近代美術館。
1982年 個展、「制度としての色紙」展、ウナックサロン(東京)。
喚乎堂ギャラリー(前橋)、番画廊(大阪)。
個展、「遺伝染色体による無限の綾取り」ギャラリー16(京都)。
「サヨナラKUDO」展、銀座絵画館(東京)。
「天皇制の構造について」高木画廊(名古屋)。
「アート・フェスティバル、現代の美術」展、富山県立近代美術館。
「FIAC・パリ画商」展、グラン・パレ(パリ)。
1983年 「ムーラージュ形・型」展、アンドレ・マルロー記念館(パリ)。
「ヨーロッパ1960年回顧展」、サンテチェンヌ文化館、同工業美術館 サンテチェンヌ市(フランス)。
「ハット・アート」(ベルリン市他)。
「ピノキオ100年祭展」、カーン市(フランス)。
「全く別の具象」展、マチアス・フェルス画廊(パリ)。
「フランス文化省選抜展」、パピヨン・デ・ザール(パリ)。
「ローベル社発行 世界現代美術年鑑」最新版に新作3点掲載、(パリ、ニューヨーク)。
「縄文の構造=天皇制の構造=現代日本の構造」展、サプリメントギャラリー(東京)、天満屋ホール(岡山)、ギャラリー16(京都)、フジタ画廊(弘前)。
「1960年代展」東京都美術館。
個展、51番館ギャラリー(青森)。
1984年 「工藤哲巳のエロチィシズム」フジタ画廊(弘前)。
「日本の心」伊達画廊(岡山)。
「エレクトラ展」パリ市立近代美術館。
個展、岡崎球子画廊(東京)。
「現代の絵画1970-80」群馬県立近代美術館。
「美術の神風・工藤哲巳」河合塾ホール(名古屋)。
「縄文の構造=天皇制の構造=現代日本の構造」展、エスパースジャポン(パリ)、スペース・ニキ(東京)。
「カフカの世紀」展、ポンピドーセンター(パリ)。
「ベヒトコレクション」展、アムステルダム市立近代美術館。
「現代東北美術の状況展」、福島県立美術館。
弘前市立博物館長・羽場徳蔵氏の努力で父工藤正義の遺作回顧展を開催。
「津軽文化褒賞」受賞、「内助功労賞」を妻・弘子が受賞。
「天壤のオブジェ–工藤哲巳と日本の遊人たち」展、(東京・渋谷パルコ)。
「鋸山-脱皮の記念碑-を回想する」ウナック・トウキョウ(東京)。
1985年 パリの個展を前にドローイング、オブジェ、コラージュの新作展をMギャラリー(東京)で開催。
(以上、記憶にあるものを記入、漏れのあった場合はお許し乞う。–工藤哲巳)
1985年 「咲きほこる前衛」、ギャラリー・ジルベール・ブラウンストン(パリ)
FIAC・画商展、グラン・パレ(パリ)。
「再構成:日本の前衛芸術、1945-1965」、オックスフォード近代美術館(オックスフォード)。
1986年 「ひとりの作家の歩んだ道・工藤哲巳の世界」弘前市立博物館(弘前)。
個展、コバヤシ画廊、東京。
1986年 「ひとりの作家の歩んだ道」、ギャラリー・クロード・サミュエル、ギャラリー・ジルベール・ブラウンストン(セレモニー「無限の綾取り」)、パリ。
1986-87年 「前衛の日本」展、ポンピドーセンター、パリ。
1987-88年 「ベヒト・コレクション」展、現代美術センター、ミディ・ピレネー、及びヴィルヌーヴ市立近代美術館、アスクにて、フランス。
1988年 「マルセイユの現代美術」展、ミューゼ・カンチニ、マルセイユ。
1989年 「ハプニングとフルクサス」展、ギャラリー1900-2000及びギャラリー・ドゥ・ジェニー、パリ。
「クドー」FIAC国際画商展での個展、グランパレ、パリ。
個展「クドー」、ギャラリー・ドゥ・ジェニー、パリ。
1990年 11月12日死去(1987年10月1日から東京芸術大学美術学部の教授として単身赴任中であった。)
家族は妻・弘子と長女紅衛、パリ在住。
1991年 「クドーテツミへのオマージュ」展、主催、ゴッホ・ファンデーション及びファン・リーカム美術館、アペルドルーン、共催アムステルダム市立近代美術館。
「クドー・テツミへのオマージュ」、ポンピドーセンター、パリ。協力:工藤弘子
「芸術と日常-反芸術/汎芸術」展(予定10月10日~12月1日)、主催 国立国際美術館、大阪。
1994年 「工藤哲巳回顧展」予定、国立国際美術館、大阪、東京、パリ等。
(上記の略歴は、1985年の項目下に註記のある部分までが工藤哲巳の作成、それ以後は夫人の追記による。)

出 典:『日本美術年鑑』平成3年版(321-324頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「工藤哲巳」『日本美術年鑑』平成3年版(321-324頁)
例)「工藤哲巳 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10472.html(閲覧日 2024-03-30)

以下のデータベースにも「工藤哲巳」が含まれます。

外部サイトを探す
to page top