益田義信

没年月日:1990/01/10
分野:, (洋)

 国際美術家連盟名誉会長で美術の国際交流に尽くした洋画家益田義信は、1月10日午前6時55分、老衰のため横浜市中区の警友病院で死去した。享年84。三井物産創業者益田孝を祖父に、劇作家益田太郎冠者を父に持つ益田は、明治38(1905)年3月1日、東京・品川御殿山に生まれた。慶応義塾幼稚舎より普通部に進み、同部三年在学中に油絵を始める。昭和元(1926)年、中川一政ら春陽会の若手画家たちと慶応の学生グループの合同展である桃源展を設立し日本橋丸善などで展覧会を開く。昭和2(1927)年第6回国画創作協会展に「アネモネ」で入選し、梅原龍三郎の知過を得、以後梅原を師に仰ぐ。翌3年慶応義塾大学経済学部を卒業し、美術研究のための渡仏、パリでは宮田重雄、伊東廉、林重義佐分真と交友し、3年間滞在の後、同6年帰国する。同7年第7回国画会展に初出品し、「ボーリュー」「コルテの家」「南佛風景」等滞欧作11点を展観して同会会友に推される。同18年国画会会員となり、戦後も同展に出品した。同24年、伊原宇三郎らと日本美術家連盟を組織してその委員となり、芸術家の社会的地位の改善に尽力する。同27年日本が初めてヴェネツィア・ビエンナーレに参加するに際しその副委員となり、その折の体験から同展日本館の設立を企画して同31年これを完成する。同30年、アメリカ国務省の招待を受け3ケ月間アメリカの美術館、美術学校を視察。この間、カーネギー国際展日本参加を交渉し、また、後にはヴェネツィア・ビエンナーレ、サンパウロ・ビエンナーレ等の国際展に委員として参加。同41年にはユネスコの国際造型芸術連盟(IAA)会長となり、同44年退任と同時に同会名誉会長となった。ヨーロッパ風景、花、庭などを好んで描き、版画の制作も行ない、昭和30年には国画会版画部会員ともなったが、同53年12月、同会を退いた。戦後間もない昭和24年よりアマチュア画家による『チャーチル会』の指南役をつとめたことでも知られ、訳書にオリビエ著『ピカソと其の友達』などがある。

出 典:『日本美術年鑑』平成3年版(288頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「益田義信」が含まれます。
to page top