三輪勇之助

没年月日:1990/01/01
分野:, (洋)
読み:みわゆうのすけ

 二紀会理事の洋画家三輪勇之助は1月1日午後1時20分、心不全のため東京都江東区の昭和大学付属豊洲病院で死去した。享年69。建築物と人物像を重ね合わせて描く二重映像で知られた三輪は、大正9(1910)年2月26日、三重県四日市市に、四日市油脂会社社長三輪蔵之助の次男として生まれた。旧第六小学校を経て、昭和12(1937)年、三重県立富田中学校を卒業。多摩帝国美術学校(現、多摩美術大学)西洋画科に学び、同18年同校を卒業する。同20年、舞台装飾美術家山崎醇之輔に出会い、その舞台装飾を手伝うようになる。また、山崎の建築図面から透視図(パース)を描くことを学び、泥絵具など舞台美術の画材に触れる。同33年第12回二紀展に「パストラル」「昆虫採集にいったとき」を出品して褒賞受賞、翌34年第13回同展に「聞く」を出品して二紀会佳作賞を受け、同36年同会同人に推挙される。同37年第16回二紀展に「青い森林の樹」を出品して同人努力賞受賞、同42年第10回安井賞候補新人展に「明治の館」「東京日本橋」を出品し、同年第11回同展に出品した「司令部跡の階段」は安井賞候補作となった。同43年、二紀会会員に推され、同44年第23回同展では「濠」で文部大臣奨励賞受賞。同60年第39回二紀会に「螺旋階段」「まわりかいだん」を出品して菊華賞を受け、同62年同会理事となった。初期には動植物をモチーフとするシュール・レアリスム的作風を示し、その幻想性は昭和40年代に入って透視図法で描かれた建築物同士、あるいは人物、仏像などを重ねて描き、それによって複雑な時空間を画中に出現させる作風へ展開した。著書に『西の京を描く』(美術出版社、新技法シリーズ、昭和52年)があり、没後の平成3年3月、世田谷区立世田谷美術館・区民ギャラリーで「三輪勇之助遺作展」が、同年6月、郷里の三重県立美術館で「三輪勇之助展」が開かれた。年譜、参考文献は同展図録に詳しい。

二紀展出品歴
第12回(昭和33年)「パストラル」「昆虫採集にいったとき」、13回「聞く」、14回(同35年)「しぶき」、15回「断相」、16回「青い森林の樹」、17回「もりの樹」、18回「森と樹」、19回(同40年)「明治の館」、20回「東京日本橋」、21回「司令部の階段」、22回「館の揺椅子」、23回「濠」、24回(同45年)「清水門」、25回「老師の夢」、26回「燭」、27回「<北国>の老師」、28回「文殊さんのお堂」「西の京」、29回(同50年)「燭光」「香煙」、30回「古刹新緑」「古塔新堂」、31回「TOKYO」、32回「誕生」、33回「蔦の館」、34回(同55年)「老樹の館」、35回「ステージ」、36回「東京水道発祥の地」、37回「西新宿の道路」「高架高層」、38回「新宿の台湾館」「新宿ナイアガラの滝」、39回(同60年)「螺旋階段」「まわりかいだん」、40回「城下町の学舎」「城郭」、41回「らんとモデル(瞑)」、42回「追想-シンガポールの歴史館にて」「白い館」、43回「明治の小学校-作法室」「明治の小学校-沓脱石」

出 典:『日本美術年鑑』平成3年版(287-288頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月26日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「三輪勇之助」『日本美術年鑑』平成3年版(287-288頁)
例)「三輪勇之助 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10387.html(閲覧日 2024-03-29)

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