菊川多賀

没年月日:1991/01/15
分野:, (日)

日本美術院の同人で評議員の日本画家菊川多賀は、1月15日午前11時2分、心筋コウソクのため、埼玉県新座市の新座病院で死去した。享年80。明治43(1910)年11月16日、北海道札幌市に土木建築業を営む父菊川竹次郎、母トリの次女として生まれる。本名孝子。大正12年豊水小学校尋常科を卒業し、北海女学校に入学したが、翌13年一家が東京の渋谷区幡ケ谷に移転したため、麹町女学校の2年に転入する。しかし間もなく、眼病により失明状態となり、治療に専念するため学業を断念。昭和4年父の友人だった清原斎に入門し、日本画を学び始めるが、12年頃から再び病状が悪化、以後10年間ほど療養生活をしいられた。戦後22年、堅山南風に師事し、翌23年の第33回院展に「閑日」が初入選する。以後、連年院展に出品し、27年第37回院展「朝」、30年第40回「市場」、31年第41回「群像」、34年第44回「荷葉童心」が奨励賞、33年第43回「海女」が佳作となり、36年第46回「祈」、37年第47回「森」、38年第48回「舞妓」は3年連続して日本美術院賞を受賞した。この間、25年日本美術院院友、36年特待となり、39年には同人に推挙された。昭和20年代には少女や母子を多く描いていたが、30年代には裸体群像、40年代には文楽や歌舞伎に画題を求めた作品を多く制作した。みずからも、師南風が33年第43回院展に出品した「応接間の人」のモデルとなっている。47年第57回院展「鳴神想」は文部大臣賞、57年第67回院展「遥」は内閣総理大臣賞を受賞。日本美術院では51年から評議員をつとめた。八晃会、旦生会、生々会などにも出品。昭和63年北海道立近代美術館で「生命の群像-菊川多賀展」が開催された。

院展出品歴
昭和23年33回「閑日」、24年34回「少女」、25年35回「母子」、26年36回「初秋」、27年37回「朝」(奨励賞)、28年38回「帰路」、29年39回「収獲」、30年40回「市場」(奨励賞)、31年41回「群像」(奨励賞)、33年43回「海女」(佳作)、34年44回「荷葉童心」(奨励賞)、36年46回「祈」(日本美術院賞)、37年47回「森」(日本美術院賞)、38年48回「舞妓」(日本美術院賞)、40年50回「女人讃歌」、41年51回「文楽人形」、42年52回「スペインの踊子」、43年53回「訶利帝母」、45年55回「懐郷」、46年56回「衆生」、47年57回「鳴神想」(文部大臣賞)、48年第58回「転生」、49年59回「婦図」、50年60回「文楽」、51年61回「小宰相」、52年62回「ひとつの記録」、53年63回「歌舞伎印象」、54年64回「無量華1」、55年65回「無量華2」、56年66回「無量華3」、57年67回「遥」、58年68回「文楽人形(江戸時代)」、59年69回「道標」、60年70回「刻」、61年71回「幻」、62年72回「還生譜」、63年73回「転生2」、平成元年74回「華」、同2年75回「帰路」

出 典:『日本美術年鑑』平成4年版(282頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「菊川多賀」『日本美術年鑑』平成4年版(282頁)
例)「菊川多賀 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10369.html(閲覧日 2024-04-16)

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