北澤映月

没年月日:1990/04/07
分野:, (日)

美人画家で知られる日本美術院評議員の女流画家北澤映月は、4月7日午後2時41分、肺炎のため神奈川県川崎市の柿生病院で死去した。享年82。明治40(1907)年12月9日京都市下京区に生まれ、本名智子、のち嘉江。京都市立第二高等小学校6年の時に父が死去し、大正11年同校卒業後、画家を志し、翌12年上村松園に師事する。昭和7年松園の紹介により土田麦僊に入門、映月の号を受け、その画塾山南塾で学ぶ。同11年春、第1回改組帝展に「祇園会」が初入選するが、同年6月、師麦僊が死去。その後、13年第25回再興院展に「朝」を初出品し入選、以後院展に連年出品する。15年第27回院展に「婦人」を出品して院友となり、翌16年には同第28回院展で「静日」が日本美術院賞第三賞を受賞、小倉遊亀に続く女性2人目の同人に推挙された。戦後21年第31回に「文五郎の人形」を出品し、その後現代的な女性風俗を扱った作品に移行、35年第45回「舞妓」、36年第46回「花と舞妓」(文部省買上げ)、40年第50回「三人のモデル」、41年第51回「A夫人」などを発表する。また、大磯の安田靫彦邸に通った写生による39年第49回「錦の紅梅」なども出品。そして、45年第55回「ねねと茶々」は内閣総理大臣賞、細川ガラシャと淀君を題材にした55年第65回「朱と黒と」は文部大臣賞を受賞、歴史画にも秀作を残した。このほかにも48年第58回「想(樋口一葉)」、49年第59回「焔(八百屋お七、朝顔日記深雪)」、51年第61回「近松の女(おさんと小春)」、52年第62回「寂光(淀どの)」など、晩年は文学や歌舞伎などに取材した歴史人物画を多く制作した。この間、35年住みなれた京都から東京に転居し、翌36年から日本美術院評議員をつとめる。秋の院展には、61年第71回「緑蔭」が最後の出品となった。

院展出品歴
昭和13年 第25回 朝
昭和14年 第26回 待月
昭和15年 第27回 婦女
昭和16年 第28回 静日 日本美術院賞 第三賞 同人推挙
昭和17年 第29回 好日
昭和18年 第30回 新果
昭和21年 第31回 文五郎の人形(酒屋のお園)
昭和22年 第32回 婦二題
昭和23年 第33回 緑衣
昭和24年 第34回 小憩
昭和25年 第35回 母の日
昭和26年 第36回 二面像
昭和27年 第37回 道成寺
昭和28年 第38回 白川学園の子供達
昭和29年 第39回 花
昭和30年 第40回 婦女曼荼羅
昭和31年 第41回 二婦人
昭和32年 第42回 羅
昭和33年 第43回 壷と坐婦
昭和34年 第44回 花と実
昭和35年 第45回 舞妓
昭和36年 第46回 花と舞妓
昭和37年 第47回 花の中
昭和38年 第48回 彩裳
昭和39年 第49回 錦の紅梅
昭和40年 第50回 三人のモデル
昭和41年 第51回 A婦人
昭和42年 第52回 或る日の安英さん
昭和43年 第53回 きもの
昭和44年 第54回 蘆刈の佳人
昭和45年 第55回 ね々と茶々 内閣総理大臣賞
昭和46年 第56回 華
昭和47年 第57回 女人卍(にょにんまんじ)
昭和48年 第58回 想(樋口一葉)
昭和49年 第59回 焔(八百屋お七 朝顔日記深雪)
昭和50年 第60回 江戸と上方
昭和51年 第61回 近松の女(おさんと小春)
昭和52年 第62回 寂光(淀どの)
昭和54年 第64回 一途
昭和55年 第65回 朱と黒と 文部大臣賞
昭和56年 第66回 綵裳(さいしよう)
昭和57年 第67回 朧(憩の阿国)
昭和58年 第68回 彩華
昭和59年 第69回 華と花
昭和60年 第70回 叢
昭和61年 第71回 緑陰

出 典:『日本美術年鑑』平成3年版(290頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「北澤映月」『日本美術年鑑』平成3年版(290頁)
例)「北澤映月 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10363.html(閲覧日 2024-03-28)

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