小野忠重

没年月日:1990/10/17
分野:, (版)

 版画家で版画史研究、洋風画史研究でも知られた小野忠重は、10月17日肺炎のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年81。明治42(1909)年1月19日東京市本所区に生まれる。実家は酒類等の小売商を営み、忠重は一人息子として育った。早稲田実業学校在学中の大正13年、中西利雄、小山良修らの蒼原会に加わり水彩画に親しみ、翌年の白日会第2回展に出品した。同年、永瀬義郎著『木版画を試みる人に』に接し創作版画にめざめ、自ら試作したりした。また、この頃から本郷絵画研究所へ通った。昭和2年、早稲田実業学校を卒業、以後家業に従事する。同4年、第2回プロレタリア美術展に油彩画、木版画(「ビラを見る労働者」)等3点を出品(~第5回展まで毎回)、次第に版画に専心するに至った。プロレタリア美術展への出品作に連作「三代の死」(同6年)などがある。同7年、第2回日本版画協会展に「患者控室」等を出品する一方、新版画集団を創立、これは当時のプロレタリア美術運動に呼応したものであった。同12年、新版画集団を改組し造型版画協会をおこし主宰する。この間、同8年には黒田源次著『西洋の影響を受けたる日本画』に触れ感動し、以後黒田との文通を始めるなど、日本洋風画史への関心を高めていった。後年の著書『江戸の洋画家』(昭和43年、三彩社)は、その研究の集大成といえる。また、同16年には法政大学高等師範部国語漢文科を卒業した。同20年、一時岡山県津山市へ疎開したが翌年東京へ戻り、美術出版社に入り「洋画技法講座」「美術手帳」の編集に携わった。戦後は日本美術会の委員として、同23年の同会アンデパンダン展第2回から毎回出品し、戦前同様庶民の生活に密着した題材を用いて制作を続け、一貫して版画の大衆化をめざした。一方、「木版陰刻」などの手法により独自の作風を確立していった。同31年、東京・銀座養清堂画廊で初の個展を開催。翌32年第1回東京国際版画ビエンナーレ展に出品、以後出品は第4回展まで及び、第6・7回展には諮問委員を委嘱された。同36年、ソ連で開催された現代日本版画展を機に訪ソし、ヨーロッパも巡遊する。同年、岩波新書として『版画』を発刊。この間、同38年から同52年まで東京芸術大学絵画科版画研究室の講師をつとめた。同54年紫綬褒章を受章。同63年には、東京芸術大学芸術資料館で「小野忠重の版画と素描」展が開催された。版画作品は他に、「工場街」(昭和10年)、「狐市街」(同13年)、「けむり」(同31年)など。作品集に『小野忠重版画集』(同52年)。版画史、版画の技法に関する著書も多く、『日本の銅版画と石版画』(昭和16年 双林社)、『版画技法ハンドブック』(同35年 ダヴィッド社)、『近代日本の版画』(同46年 三彩社)などがある。

出 典:『日本美術年鑑』平成3年版(319-320頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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