長沼孝三

没年月日:1993/10/22
分野:, (彫)

 日展参与の彫刻家長沼孝三は10月22日午前10時35分、心筋こうそくのため東京都品川区の昭和大学病院で死去した。享年85。明治41(1908)年1月18日、山形県西置賜郡に生まれる。長井小学校を経て大正14(1925)年県立長井中学校を卒業。同15年東京美術学校彫刻科に入学し、昭和6(1913)年、同校を卒業する。同年第12回帝展に「インテリゲンチャ」で初入選。以後官展に出品を続け、同12年第1回新文展には「踊る」を出品した。同14年中国北部を約二ケ月旅する。同15年紀元2600年奉祝展に「山の鎮」を出品。同16年第2回聖戦美術展に「英霊」を出品し陸軍大臣賞を受賞した。同17年7月高村光太郎を顧問とする造営彫塑人会の創立に参加し、同会会員となる。同年第5回新文展に「若者は征く」を出品して特選となる。同18年満州美術学校開校とともに同校教授となった。同20年陸軍美術展に聖戦記念碑「ラバウル」を出品。同21年春第1回日展に「葡萄」を出品。同年秋の第2回日展には「愛と平和」を出品し、以後同展に出品を続ける一方、同22年7月に沢田政廣らが設立した日本彫刻家連盟にも参加し、同23年の第1回同展に「女」を出品した。同24年7月戦後初めての野外彫刻「愛の女神」を東京・上野駅前広場に設置した。同28年日本彫刻家連盟が解散し、日本彫塑家倶楽部が設立されると同連盟に参加して出品を続けた。同35年日展評議員、同59年日展参与となる。後進の指導にも尽力し、同38年から同53年停年退官するまで東京家政大学教授をつとめたほか、同41年に設立された東京デザインアカデミー(現東京デザイン専門学校)の顧問を、設立時からつとめた。関野聖雲に師事し寓意的女性像を得意としたが、同49年からその後ライフワークのように連続してつくられることとなる念仏踊を主題とする作品の制作を始める。一方で、社会批判を含む作品を日展に出品し続けた。平成4年郷里長井市の生家、丸大屋敷内に長沼孝三彫塑館(山形筈長井市十日町1-11-7)が開設された。

帝展・新文展・日展出品歴
第12回帝展(昭和6年)「インテリゲンチャ」、第13回「子供の家」、第14回不出品、第15回「坊やは春」、第1回新文展(同12年)「踊る」、第2、3回不出品、紀元2600年奉祝展(同15年)「山の鎮」、第4回新文展「熟慮」、第5回(同17年)「若者は征く」(特選)、第6回不出品、第1回日展(同21年春)不出品、第2回(同年秋)「愛と平和」、第3回「スタイル」、第4回「おとめ」、第5回(同24年)「風」、第6回「女」、第7回「女」、第8回「女」、第9回「ひととき」、第10回(同29年)「山羊と女」、第11回「手」、第12回「女」、第13回「女」、改組第1回日展(同33年)「女二人」、第2回「若い二人」、第3回「一姫誕生」、第4回「母の像」、第5回(同38年)「風」、第6回「辰年のうた」、第7回「七夕」、第8回「仮面」、第9回「縄文」、第10回(同43年)「女」、第1回社団法人日展(同44年)「若衆」、第2回「念」、第3回「うそふき」、第4回「傀儡」、第5回(同48年)「1973怪」、第6回「怪いよいよ怪」、第7回「ありうべからざる怪」、第8回「話があわない」、第9回「お先真っ暗」、第10回(同53年)「歌う」、第11回「居直り時代」、同12回「まず損得」、第13回「キナ臭い」、第14回「凶器を持たすな」、第15回(同58年)「心中はごめん」、第16回「桜下念仏」、第17回「雪国」、第18回「念仏踊 枕打」、第19回「舞う」、第20回(同63年)長井橋「今」、第21回(平成元年)「けん玉」、第22回「現代うかれ雛」、第23回「さかさに見るとおもしろい」、第24回「渋茶も結構」、第25回(同5年)「黒衣讃歌」(遺作)

出 典:『日本美術年鑑』平成6年版(337頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「長沼孝三」が含まれます。
to page top