菅創吉

没年月日:1982/04/29
分野:, (洋)

生涯団体に属さず、自由な制作態度で独自の足跡を残した洋画家、菅創吉は、4月29日午後2時57分胃ガンのため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年77。1905(明治38)年5月6日、兵庫県姫路市に旧高知藩士彼末亀太郎の四男として生まれる。本名、彼末己之助。12年飾磨尋常小学校に入学。20(大正9)年姫路市男子高等小学校を卒業する。父の影響により幼い時から画家を志し、秋吉蘇月に師事する。25年上京し、講談社等の図版カット、政治漫画などを描く。38(昭和13)年、満州鉄道牡丹江鉄道局に勤務し、付近を旅行し制作する。45年広島県豊田郡瀬戸田に引上げ、翌46年より神戸進駐軍に勤務。50年神戸市の家屋が失火により全焼し、東京に居を移す。この時、多くの作品を失っている。上京後2年半程毎日新聞等に挿絵を描いていたが、59年なびす画廊(東京)で個展を開き、その際出品された「夢」がその後の方向を決定する転期となり、以後ほとんど毎年、油絵を中心とする個展を画廊で開催する。63年ワールド・ビジョン総裁ピアスの招きにより渡米。ロスアンゼルス、サンフランシスコ、ニューヨークのギャラリーで個展を開き、71年にはブルックリン美術館に出品する。この間、66年アメリカ永住権を獲得する。滞米中、カナダ、メキシコを訪れ、72年ヨーロッパをまわって帰国。帰国後第一回目の個展を中井三成堂画廊(姫路)で開いた後、個展等を通じて積極的に作品を発表。76年兵庫県立近代美術館で開催された「兵庫の美術家・県内洋画壇回顧展」に「乾坤」「回生」が招待出品され、82年には静岡県伊東市池田20世紀美術館で「菅創吉の世界」展が開かれた。画家の死はこの会期中のことであった。滞米中から手がけたコラージュ、アッサンブラージュは晩年にオブジェ、彫刻を製作するまでに展開し、画材、形式ともに枠にとらわれない制作態度を貫いた。簡略化されたユーモラスな形と渋い色彩による画面の中に、物や行為についての認識の再検討を促す鋭い洞察がこめられている。

出 典:『日本美術年鑑』昭和58年版(272頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「菅創吉」『日本美術年鑑』昭和58年版(272頁)
例)「菅創吉 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10137.html(閲覧日 2024-04-19)

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