朝井閑右衛門

没年月日:1983/04/23
分野:, (洋)

 洋画家朝井閑右衛門は、4月23日心不全のため鎌倉市の恵風園胃腸病院で死去した。享年82。油彩の厚塗りで強烈な個性を発揮し、野人画家でもあった朝井は、明治34(1901)年1月24日大阪市南区に生まれ幼名を實といった。大正9年父の死去により家督を相続し、同年、陶芸家河野公平とともに上京、本郷洋画研究所に学び、この頃から転々と友人間を流浪する生活となる。同15年第13回二科展に「廃園に於て」が初入選、昭和5年第17回二科展にも「少女K」が入選するが、同9年には第21回光風会展と第15回帝展に共に入選し、以後戦前は光風会展(同12年会員)、官展へ出品した。同11年文展鑑査展に500号の大作「丘の上」を出品し文部大臣賞を受賞。同13年には上海軍報道部の委嘱を受け上海戦線記念絵画制作のため中村研一小磯良平向井潤吉らと同地に赴き、同20年にも上海を訪ね同地で終戦を迎えた。戦後は同22年に井手宜通、川端実、須太剋太らと新樹会を結成し第1回展に「雨の日」などを出品、同展には同51年の第30回展後解散に至るまで、精力的に出品を続けた。一方、戦後の日展には同25年に審査員となるが出品せず、同年光風会からも離れた。日本国際美術展、現代日本美術展にはともに第1回から出品し、同37年には鳥海青児海老原喜之助岡鹿之助らとこの年に組織された国際形象展の同人となり、第1回展から出品した。晩年に至るまでその制作意欲は衰えず奔放な厚塗りに独自の生彩を盛った。しかし、戦前戦後を通じ常に画壇の第一線で活躍しながら画集もなく、また本格的な個展も開催することがなく、特異な生涯を貫いた。
略年譜
1901(明治34年)
1月24日、大阪府大阪市南区に、父浅井繁熊母ヒサの長男として生まれる。幼名實。
1913(大正2年)12歳
3月、恵美第一尋常高等小学校尋常科を卒業。
1920(大正9年)19歳
1月、広島市に於て、父の死去(享年44)に伴い家督を相続。この前後から家には寄り付かず、交流していた陶芸家河野公平と後に上京、東京府北豊島郡日暮里町(現在の荒川区)の叔父方、木村家に寄寓して本郷洋画研究所に学び、この頃から、友人の間を転々とする流浪の生活となる。
1925(大正14年)24歳
この頃、西宮市の清水保雄宅に半年ほど逗留した後再び上京し、東京市下谷区集明館の二階を借り、アトリエに当てる。
1926(大正15年)25歳
9月、第13回二科に『廃園に於て』が初入選。この時、二科の出品票は、東京府豊多摩郡。
1928(昭和3年)27歳
この頃、神奈川県足柄下郡桃源寺の借家に住み、また早川沿いの山麓に貸別荘を借り、アトリエに当て制作する。ここで牧野信一、川崎長太郎、福田正夫、牧雅雄等を知る。
1930(昭和5年)29歳
9月、第17回二科展に『少女K』が入選。
1932(昭和7年)31歳
この頃、平岡権八郎の知遇を受け同家のアトリエに寄宿するようになる。
1934(昭和9年)33歳
2月、第21回光風会展に『素描する人』が入選。
10月、第15回帝展に『目刺のある静物』が入選。
1935(昭和10年)34歳
2月、第22回光風会展に『若き弁護士の像』が入選。
10月、第二部会第1回展覧会に『考古学者と其家族』が入選し、文化賞特選。
1936(昭和11年)35歳
4月、第23回光風会展に『画家像』『ロリルの踊り』が入選し、光風会々友となる。この頃、板橋区の通称“練馬のアトリエ村”に住むようになる。
10月、昭和11年文展・鑑査展に、500号の大作『丘の上』が入選し、文部大臣賞。
1937(昭和12年)36歳
2月、第24回光風会展に『ナルシース』『ギタリスト』『星を高ふピエロ』を出品し、光風会々員となる。
同年の光風会展目録の住所は、再び下谷区谷中真砂(島)町1-2集明館内。
10月、第1回新文展に『通州の救援』が入選。
1938(昭和13年)37歳
2月、第25回光風会展に『放浪者』『五月のエスキース』『唄ふ人』を出品(評議員)。同展出品目録の住所は、板橋区。
5月、上海軍報道部の委嘱により上海戦線記念絵画(戦争記録画)を制作のため、中村研一小磯良平江藤純平柏原覚太郎向井潤吉南政善鈴木栄二郎脇田和、長坂春雄等と上海に赴く。
10月、第2回文展に『生還特務隊』が入選。この年、日本大学芸術科の講師となる。
1939(昭和14年)38歳
7月、第1回聖戦美術展に『楊家宅望楼上の松井最高指揮官』を出品(招待・無鑑査)。10月、第3回文展に『良民救助』が入選。
1940(昭和15年)39歳
この年、大河内信敬、南善政と中国へ赴く。10月、紀元2600年奉祝美術展に『黎明へ』を出品。
1941(昭和16年)40歳
2月、第28回光風会展の審査員となるが同展は不出品。この年、永富花子(31歳)と結婚し、東京市大森区にあった永富家に大アトリエを構える。しかしこのアトリエは、やがて戦時の強制疎開により取り毀しとなる。
1942(昭和17年)41歳
6月1日、長女祐子が生まれる。
1943(昭和18年)42歳
10月、第6回文展(東京都美術館)に『春』(招待無鑑査・現在京都市美術館蔵)を出品。この年、上海に赴き、歯科医横田東一宅に寄宿する。
1944(昭和19年)43歳
5月13日、二女三喜が生まれる。11月に『豊取(誉ノ家族)』を出品。
1945(昭和20年)44歳
この年春、上海に赴き、ブロードウェイマンション714号室に住む。ここで敗戦を迎へ、翌年の引揚げまでの間を施高塔路大陸新邨に滞在する。
1946(昭和21年)45歳
この年春、上海から引揚げ、しばらくの間引揚寮に滞在した後、友人の間を転々とするようになるが、この頃、咽喉の疾患により横須賀の副島医院に入院し、手術回復後もしばらくの間は同院長の副島昇宅に滞在する。また秋から翌年春にかけて静岡県三島の杉本英一宅に逗留。
1947(昭和22年)46歳
この年、横須賀市に二軒長屋を求め、1軒をアトリエに改造し1人で住むようになる。2月、第33回光風会展の審査員となるが同展は不出品。3月、井出宜通、川端実須田剋太等と「新樹会」を結成。5月、新憲法実施並に東京都美術館開館20周年記念・現代美術綜合展に『小港』を出品。6月、第1回新樹会油絵展に『雨の日』など9点を出品。10月、第3回日展に『灯ともし頃』を出品(招待)。この年、文芸雑誌「文體」第1号に掲載の高見順著「わが胸の底のここには」に挿絵を描く。
1948(昭和23年)47歳
3月、第34回光風会展に『水車』『港』を出品(審査員)。5月、第2回美術団体連合展に『古呉の景』を出品。7月、第2回新樹会展に『ばら』『ガラス台鉢』などを出品。この年、「文體」第2号の高見順著「わが胸の底のここには」続稿と、同誌第3号の北原武夫著「背徳者」続編3に挿絵を描く。
1949(昭和24年)48歳
5月、第3回美術団体連合展に『静物』を出品。7月、第3回新樹会展に『秋画室』などを出品。
1950(昭和25年)49歳
5月、第4回美術団体連合展に『新開地』を出品。7月、第4回新樹会展に『電線風景(A)』『電線風景(B)』『静物』を出品。この年、第6回日展の審査員となるが出品せず、また光風会々員名簿から、この年かぎりで消えている。
1951(昭和26年)50歳
1月、第2回選抜秀作美術展に『新開地』(連合展)が選抜される。8月、第5回新樹会展に『電線風景(A)』『電線風景(B)』『電線風景(C)』『ガラス台鉢』『マジョリカ台鉢』『街頭』『プラットホーム』『マーケット横』を出品する。
1952(昭和27年)51歳
5月、第1回日本国際美術展に『マジョリカ台鉢』『やけ跡』『シャンパンとブロンズとテラコッタ』を出品。7月、第6回新樹会展に『シャンパン瓶』『ガラス台鉢(A)』『ガラス台鉢(B)』『電線風景(トンネル)』『電線風景(ガード)』『電線風景(A)』『電線風景(B)』を出品。
1953(昭和28年)52歳
5月、第2回日本国際美術展に『ガラス台鉢』を出品。8月、第7回新樹会展に『電線風景』『ガラス台鉢』『ガラス台鉢とテラコッタ』『蓬莱(A)』『蓬莱(B)』『蓬莱(C)』『蓬莱(D)』の7点と『ガラス台鉢とテラコッタ(エスキース)』を3点出品。
1954(昭和29年)53歳
5月、第1回現代日本美術展に『ドン・キホーテの没落』を出品。
8月、第8回新樹会展に『人形使いの肖像』『ばら(A)』『ばら(B)』『ばら(C)』『ばら(D)』を出品。
1955(昭和30年)54歳
5月、第3回日本国際美術展に『奇しきヘロデ王の怒りとサロメ』(3部作)を出品。
8月、第9回新樹会展に『ガラス台鉢(A)』『ガラス台鉢(B)』『ドン・キホーテの没落』『ばら(A)』『ばら(B)』『ばら(C)』『ばら(D)』『スカパンとクリスパン』を出品。
この年から昭和32年にかけて、東京都中央区鈴木医院の新築別棟(鈴木良純方)の2階をアトリエに提供されて制作する。なお田浦のアトリエには気の向くまま時々帰っていた。
1956(昭和31年)55歳
5月、第2回現代日本美術展に『ドン・キホーテ』を出品。
8月、第10回新樹会展に『道化(恋)A』『道化(恋)B』『ばら(A)』『ばら(B)』『ばら(C)』『港(嵐)』『港(帰らぬ船)』を出品。
この年、「文芸」1月号、「文学界」3月号、「雲母」5月号、9月号、10月号などの表紙を描く。
1957(昭和32年)56歳
1月、第8回選抜秀作美術展に『道化(恋)B』(新樹会)が選抜される。
5月、第4回日本国際美術展に『道化』を出品。
7月、第11回新樹会展に『ばら(A)』『ばら(B)』『ばら(C)』『ばら(D)』『ばら(E)』『仁王(紅葉)』『道化』『ガラス鉢と人形』を出品。
この年、「週刊新潮」に掲載の高見順著「愛と死」「春本考」「生と性」「エロスの招宴」と、「文芸」2月号の「春の随筆全集」などに挿絵を描く。
1958(昭和33年)57歳
1月、第9回選抜秀作美術展に『ぱら』(新樹会)が選抜される。
5月、第3回現代日本美術展に『バラの図』を出品。
8月、第12回新樹会展に『新秋』『道化』などを出品。
この年、中山恒明著「随筆集・学園の骨片」の表紙、扉の装訂をする。
1959(昭和34年)58歳
5月、第5回日本国際美術展に『紅葉水車』を出品。
8月、第13回新樹会展に『バラ』『ガラス台鉢』『花束』『ファルス(A)』(現在神奈川県立近代美術館蔵)『ファルス(B)』を出品。この年、「雲母」3月号の表紙を描く。
1960(昭和35年)59歳
1月、第11回選抜秀作美術展に『ファルス(A)』(新樹会)が選抜される。
5月、第4回現代日本美術展に『電線風景(A)』『電線風景(B)』を出品。
8月、第14回新樹会展に『詩人山本太郎像』『詩人三好達治像』『詩人草野心平像』『詩人山崎栄治像』『バラ(A)』『バラ(B)』『バラ(C)』『プール』『ガラス鉢』を出品。
1961(昭和36年)60歳
5月、第6回日本国際美術展に『廃園において』を出品。
8月、第15回新樹会展に『バラ(A)』『バラ(B)』『バラ(C)』『バラ(D)』『バラ(E)』『バラ(F)』『ドン・キホーテとサンチョパンサ、シリーズ』『ドン・キホーテ(坂)A』『独身主義の人魚とキューピッド、シリーズ(D)』を出品。
1962(昭和37年)61歳
5月、第5回現代日本美術展に『出発』を出品。
この年春、「国際形象展」が組織され、鳥海青児海老原喜之助林武森芳雄、野口彌太郎、荻須高徳岡鹿之助高畠達四郎山口薫と共に同人となる。
8月、第16回新樹会展に『バラ(信楽壷)』『若き萩原朔太郎』『バラ(夜明け前の)』『石と梅の実、室生犀星(われはうたへど)』『バラ(アイルランド壷)』を出品。
10月、第1回国際形象展に『ガラス台鉢のある静物』『ある逃走者』『晴来る』『誘惑』を出品。
1963(昭和38年)62歳
1月、第14回選抜秀作美術展に『ある逃走者』(新樹会)が選抜される。
5月、第7回日本国際美術展に『善雲と悪雲』を出品。
8月、第17回新樹会展に『パン(A)』『パン(B)』『パン(C)』『パン(D)』『アトリエに於ける木内克』を出品。
10月、第2回国際形象展(日本橋・三越)に『ドン・キホーテ』『仮面なしでは生きられない』を出品。
1964(昭和39年)63歳
1月、第15回記念・選抜秀作美術展に『仮面なしでは生きられない』(国際形象展)が選抜される。
6月、第18回新樹会展に『序曲』『絵本(綱渡りの法の)』『パリスのさいばん』『台所(のら猫)』『パリスのさいばん』『仕事場(メキシコ犬のある)』『春(A)』『春(B)』を出品。
7月、第1回太陽展(銀座・日動画廊)に『朝』『バラ』を出品。
9月、第3回国際形象展に『光を求めて』『夜の旅(A)』『夜の旅(B)』『コールネシヤ』『ロバとサンチョ』『或るドン・キホーテの像』を出品。
この年、新潮現代文学14、高見順著『いやな感じ・死の淵より』の装画を描く。
1965(昭和40年)64歳
5月、第8回日本国際美術展に『行進曲(鬼の念仏と鼻くらべ)』を出品。
7月、第2回太陽展に『愛の森』『バラ』を出品。
8月、第19回新樹会展に『ギター弾(A)』『ギター弾(B)』『三人の道化』『サーカス人形』『黄昏』『薔薇』『犬とピエロ』を出品。
9月下旬から10月初旬まで横須賀国立病院に、10月初旬から11月下旬には東京の厚生年金病院に入院する。
10月、第4回国際形象展に『ピエロ』『ピエロの行進(ミラノの参加せる)』『高く大きく』『ピエロの行進A(アンダルシヤ)』『ピエロの行進B(アンダルシヤ)』『ついにスーザホルンを持ち出した彼ら』『最後の病床における高見順』『追憶の高見順』を出品。
1966(昭和41年)65歳
7月、第3回太陽展に『朝・逗子鐙摺ヨットハーバーA』『朝・逗子鐙摺ヨットハーバーB』『花』を出品。
8月、第20回新樹会展に『栄誉人間と人形(A)』『栄誉人間と人形(B)』『中山教授之像』『バラ』を出品。
9月、高見順展(新宿・伊勢丹、日本近代文学館・毎日新聞社主催)に『最後の病床における高見順』『追憶の高見順』を出品。
10月、第5回国際形象展に『偉そうな服を着た道化(A)』『偉そうな服を着た道化(B)』『逃げる道化』『頑固なろばと道化』『ろばと道化(A)』『ろばと道化(B)』『ろばと道化(C)』『二人の道化(A)』『二人の道化(B)』『二人の道化(C)』『二人の道化(D)』の11点を出品。
この年、20年に亙って住んだ“田浦のアトリエ”を引き払い、鎌倉市に土地家屋を求めて転居する。この家屋は興の趣くまま徐々に改築を重ね、昭和50年にアトリエはほぼ完成する。
1967(昭和42年)66歳
3月、朝井閑右衛門自選近代油絵十題展(大阪・大丸)に『バラ(マイセン壷)』他14点を出品。
5月、第9回日本国際美術展に『道化の埋葬』を出品。
7月、第4回太陽展に『ドン・キホーテ』を出品。
8月、第21回新樹会展に『白雪姫(1)』『白雪姫(2)』『白雪姫(3)』『白雪姫(4)』『白雪姫(5)』『白雪姫(6)』『白雪姫(7)』『白雪姫(8)』『白雪姫(9)』『白雪姫(10)』『キューピッド』を出品。
11月、第6回国際形象展に『ばら』『小鳥と遊ぶピエロ』『上陸』『口笛のロベルト』『東方への旅』『町廻り』『宵月(A)』『宵月(B)』『春(A)』『春(B)』を出品。
1968(昭和43年)67歳
4月、永年に亙って別居を続けていた妻花子と協議離婚をする。
5月下旬、5日間ほど東京女子医大消化器病センターへ入院する。
7月、第5回太陽展に『水泳競技事始(大正12年芝公園)』『ばら』を出品。
8月、第22回新樹会展に『遠い旅(A)』『遠い旅(B)』『遠い旅(C]』『遠い旅(D)』『遠い旅(E)』『サーカスに来たドン・キホーテ(A)』『サーカスに来たドン・キホーテ(B)』『打合せ』『大虎を逃がすな』を出品。
10月、第7回国際形象展に『記念像制作(創生記)』『サーカス(A)』『サーカス(B)』『サーカス(C)』『サーカス(D)』『サーカス(E)』『サーカス(F)』『サーカス(G)』『サーカス(H)』『夕月(A)』『夕月(B)』『夕月(C)』『夕月(D)』『夕月(E)』の14点を出品。
11月19日、戸籍氏名の「浅井實」を雅号の「朝井閑右衛門」に変更する。
1969(昭和44年)68歳
7月、第6回太陽展に『バラ』を出品。
8月、第23回新樹会展に『ドン・キホーテ(A)』『ドン・キホーテ(B)』『ドン・キホーテ(C)』『ドン・キホーテ(D)』『ドン・キホーテ(E)』『ドン・キホーテ(F)』『ドン・キホーテ(G)』『ドン・キホーテ(H)』『ドン・キホーテ(I)』『ドン・キホーテ(J)』『ドン・キホーテ(K)』『ドン・キホーテ(L)』『ドン・キホーテ(M)』の13点を出品。
10月、第8回国際形象展に『シラノ・ド・ベルジュラック(A)』『シラノ・ド・ベルジュラック(B)』『シラノ・ド・ベルジュラック(C)』『独身主義の人魚(A)(エロスに狙われる)』『独身主義の人魚(B)(エロスに狙われる)』『独身主義の人魚(C)(エロスに狙われる)』『人形図(A)』『人形図(B)』『人形図(C)』を出品。
1970(昭和45年)69歳
7月、第7回太陽展に『東方への道』を出品。
8月、第24回新樹会展に『祭礼サーカス(1)』『祭礼サーカス(2)』『祭礼サーカス(3)』『祭礼サーカス(4)』『祭礼サーカス(5)』『祭礼サーカス(6)』『祭礼サーカス(7)』『ハナズナマック(1)』『ハナズナマック(2)』『祭礼花祭』を出品。
10月、第9回国際形象展に『旅へ行く人(A)』『旅へ行く人(B)』『春』『偉大なる慈悲の物象』『春』を出品。
1971(昭和46年)70歳
7月、第8回太陽展に『ドン・キホーテ』を出品。
8月、第25回新樹会展に『海辺の子供(A)』『海辺の子供(B)』『海辺の子供(C)』『海辺の子供(D)』『海辺の子供(E)』『バラ(紅ギヤマン瓶)』『薔薇之図(法華手楽人文壷)』を出品。
9月中旬から10月初旬にかけ神奈川県の湯河原胃腸病院に入院する。
9月、第10回国際形象展に『海辺の遊び』を出品。
1972(昭和47年)71歳
2月、「戦後日本美術の展開-具象表現の変貌」展(東京国立近代美術館)に『仮面なしでは生きられない』(1963)が出品される。
6月、第9回太陽展に『ロミオとジュリエット』を出品。
8月、第26回新樹会展に『練習』『悪霊と道化』『道化への道』『砂糖壷のある静物』を出品。
9月、第11回国際形象展に『道化家族』『フラッテリー三兄弟』『3人の道化』を出品。
1973(昭和48年)72歳
7月、第10回太陽展に『森の奥』を出品。
8月、第27回新樹会展に『作品(A)』『作品(B)』『作品(C)』『作品(D)』『作品(E)』『作品(F)』『ガラス台鉢』『奇蹟(甦る行路病者)』と他に『夕月』10点を出品。
1974(昭和49年)73歳
6月、第11回太陽展に『雪の上の祭り』を出品。
8月、第28回新樹会展に『バラ(明法華壷)』『フリュートを吹く菊盛者』『フラッテリーニ』『高僧絵ノ内(A)』『高僧絵ノ内(B)』を出品。
1975(昭和50年)74歳
6月、第12回太陽展に『海辺の部屋(ハヤマ)』(現在ひろしま美術館蔵)『宵月』を出品。
8月、第29回新樹会展に『デモンストレーション(A)』『デモンストレーション(B)』『人形(A)』『人形(B)』『人形(C)』『人形(D)』『人形(E)』『人形(F)』『バラ(法華手壷)』を出品。
9月、第14回国際形象展に『ファンタジア(C)』『ファンタジア(R)』『ファンタジア(七福神の内)』『鶴亀』『とら』を出品。
1976(昭和51年)75歳
4月初旬から同中旬にかけて鎌倉市稲村ガ崎の恵風園胃腸病院に入院する。
6月、第13回太陽展に『フランス人形』を出品。
8月、第30回新樹会展(最終回)に『バラ』『絵本のある静物』『ガラス台鉢(1)』『ガラス台鉢(2)』『ガラス台鉢(3)』『ガラス台鉢(4)』『ガラス台鉢(5)』『遁走者』『FOUの像(ある生活の記録)』『ばら』『フランス人形』『薔薇(法華手楽壷)』『電線風景(1)』『電線風景(2)』『大いなる慈哀者のけい争』の15点と、旧作の“詩人の像シリーズ”から『草野心平像』『山本太郎像』『三好達治像』『萩原朔太郎像』『晩年の室生犀星』『病苦より天上へ高見順像』、また“学者の像シリーズ”から『ヨットの上の中山恒明教授』と新作の『脇村義太郎先生の像』の計23点を出品。昭和22年から続いた「新樹会」は、この年をもって解散する。
9月、第15回国際形象展に『ピカソ人形の居る静物』『バラ(法華壷)』『バラ』を出品。
1977(昭和52年)76歳
6月、第14回太陽展に『誘惑』を出品。
9月、第16回国際形象展に『祭(1)』『祭(2・おきつね)』『祭(3・鶴岡)』の3部作を出品。
1978(昭和53年)77歳
6月、第15回太陽展に『薔薇』を出品。
この年9月、自宅の風呂場で転倒しその際右脚を捻挫する。右脚は一時回復したものの再び転倒して痛め、その後は歩行に支障をきたすようになる。
1979(昭和54年)78歳
4月、日本秀作美術展に『牡丹』(第10回潮音会)が出品される。
6月、第16回太陽展に『薔薇(法華壷)』を出品。
1980(昭和55年)79歳
6月、第17回太陽展に『薔薇図』を出品。
9月、第19回国際形象展に『バラ』を出品。
この年、神奈川県立近代美術館の運営委員を委嘱される。
1981(昭和56年)80歳
6月、第18回太陽展に『薔薇』を出品。
10月、第20回国際形象展に『薔薇之図』『薔薇』『薔薇』を出品。
この年、草野心平詩集「第百階級」限定19部の表紙肉筆19葉を描く。
1982(昭和57年)81歳
6月、第19回太陽展に『バラ』を出品。
この年、小品の加筆程度で、制作は殆んど行なわず「病苦百八十七日・気分快適と言う日無し」であったと言う。
1983(昭和58年)82歳
2月末、死の予感を訴える。狭心症の発作は頻度を増すが、3月末から『薔薇』10号の加筆に取り掛り、10回余りで仕上げ、絶筆(第20回太陽展出品)となる。翌4月19日、稲村ガ崎、恵風園胃腸病院に入院する。4月23日午後7時35分死去する。遺言により葬儀は行なわず、6月10日、鎌倉の極楽寺に埋葬される。
(本年譜は、『朝井閑右衛門追想-草野心平、匠秀夫編、昭和59年、日動出版-収載の大塚信雄、門倉芳枝編「朝井閑右衛門略年譜」の一部を削除し作成したものである。)

出 典:『日本美術年鑑』昭和59年版(302-307頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「朝井閑右衛門」が含まれます。
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