中村善策

没年月日:1983/04/27
分野:, (洋)

日展参事、一水会運営委員の洋画家中村善策は、4月27日脳血栓のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年81。本名善作。一貫して風景画を描き、明快で澄んだ色調と軽快な筆触で独自の画風を築いた中村は、明治34(1901)年12月29日北海道小樽市に建築請負業中村駒吉の四男として生まれた。大正5年から海運会社に就職の側ら小樽洋画研究所に学び、同7年に神戸在勤中は神戸YMCA外国語学校英語科にも学ぶ。同13年上京し川端画学校へ通い、同年第5回中央美術展に初入選。翌14年、第12回二科展に「風景」が初入選、また、同年道展の創立会員となり、以後二科展、中央美術展、道展に制作発表を行い、昭和6年には新美術家協会に加わり同展にも出品を続ける。同11年第23回二科展に「白い燈台」「獨航船」を出品し二科特待賞を受けたが、翌12年安井曽太郎石井柏亭らによって創立された一水会第1回展に「けむり」、「山と渓流」他を出品し一水会会員に推され、以後同展に出品するとともに、安井に大きな感化を受けた。同16年第4回新文展に「豊穣」を無鑑査出品、同18年の第6回文展では審査員をつとめる。同20年4月空襲により二科時代の作品全てを焼失した。戦後は、一水会展、日展に出品したのをはじめ、美術団体連合展、日本国際美術展、現代日本美術展にもそれぞれ第1回展から出品する。同42年第10回日展に「石狩湾の丘の邑」で文部大臣賞を受賞、翌43年の第11回日展出品作「張碓のカムイコタン」で日本芸術院賞を受けた。晩年に至るまで現場での制作を身上とし、出生地である北海道や信州地方の景色を多く描いた。この間、同33年日展評議員、同44年同理事、同48年同常務理事となり、同52年からは参与、同55年からは参事をつとめ、同53年には勲四等旭日小綬章を受章した。北海道美術協会名誉会員、大谷短大美術科教授でもあった。戦後の作品には「リンゴの花」(同27年、第1回日本国際美術展)、「Port Kobe」(同29年、第1回現代日本美術展)、「信濃」(同36年、第4回日展)、「海裳の花咲く」(同38年、第7回国際展)、「秋の散歩道」(同46年、第3回日展)、「新雪の頃」(同52年、第39回一水会展)などがある。

出 典:『日本美術年鑑』昭和59年版(307頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「中村善策」『日本美術年鑑』昭和59年版(307頁)
例)「中村善策 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10119.html(閲覧日 2024-04-19)

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