山口長男

没年月日:1983/04/27
分野:, (洋)

 わが国抽象絵画の開拓者の一人である洋画家、武蔵野美術学園長の山口長男は、4月27日脳こうそくのため東京小平市の昭和病院で死去した。享年80。戦前から非具象的表現を行い、戦後も一貫して独自の抽象表現を展開した山口は、明治35(1902)年11月23日現在の韓国ソウル市に生まれた。父太平衛は鹿児島県出身である。中学時代から絵画に親しみ、大正10年上京後本郷洋画研究所へ通い、翌11年には川端画学校にも通学し、同年東京美術学校西洋画科に入学する。美校では3年から和田英作の教室に学んだ。昭和2年同校を卒業、同期生である猪熊弦一郎牛島憲之岡田謙三荻須高徳らと上杜会を結成する。また、同年帰国中の佐伯祐三を訪ね、9月に荻須とともに渡仏。パリでの最初の一年間は佐伯の制作態度に大きな刺激を受け、同3年から5年までの間はしばしば彫刻家ザッキンのアトリエへ通い、その影響を示した立体派風の作品「室内」「二人像」(昭和5)等を制作する。同6年1月帰国し、同年の第18回二科展に「二人像」「彫像」が入選。同8年、第20回展を期に前衛的な作品が集められた二科展第九室に「卓上A」「卓上B」が陳列される。この頃までに独自の抽象表現に達しており、同11年の第22回二科展出品作「態」「臥」で特待。同13年二科会会友に推挙され、同年、吉原治良、桂ユキ子らと九室会を結成し翌年第1回展を開催する。戦後は同20年に再建された二科会の会員となり、同37年まで出品する。同29年第1回現代日本美術展に「作品(かたち)」を出品し安井曽太郎とともに優秀賞を受賞、その後も現代展及び日本国際美術展に出品を続け、戦後の抽象絵画開花期に強い発言力を持つに至った。また、同28年に村井正誠らと日本アブストラクト・アート・クラブを結成、翌年同会員として第18回アメリカ抽象美術展に出品したのをはじめ、サンパウロ、ヴェネツィアの両ビエンナーレ展、グッゲンハイム賞美術展などの国際展のほとんどに出品し、海外からも高く評価された。同37年には、昭和36年度芸術選奨文部大臣賞を受ける。この間、同29年から武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)教授となり同49年までつとめた。限られた色しか用いず形を厳しく追求した山口独自の抽象表現は、戦後の同28年頃から黒の地色に黄土、赤茶色一色のみで象形文字風の形を描き始めることから出発し、ついで同30-32年にかけては垂直、水平によるかたちの組合せ(「構成」同30年)の時期を経て、同33年からは格子状のかたちがより広い色面の矩形のかたちの組合せに発展(「形の組合せ」同33年)し、次第にこのかたちが黒地のなかに大きくなり「象」(同36年)のような作品へとの展開を見せた。さらに同45年以後は、黄土色や赤茶色のかたちは画面の枠を越えた広がりを見せ、「紋」(同47年)などの作品を生んだ。同55年には、東京国立近代美術館で「山口長男堀内正和展」が開催された。
略年譜
1902年 11月23日、京城府に山口太平衛の長男として生れる。父太平衛は鹿児島県川内平佐の出身。
1915年 3月、京城公立日出尋常小学校を卒業する。
4月、京城中学校に入学する。
秋、有島武、生馬父子、京城に立寄る。有島武と父太平衛とは同郷の出で、昵懇の間柄であった。
1918年 このころ、3歳年上の中村昇のスケッチ・ハイキングに同行し、水彩画を試みる。
1919年 母かめ没。
1921年 4月、上京し、本郷春木町の親戚が経営する下宿から本郷洋画研究所に通う。ここで横手貞美、大橋了介と知り合う。
1922年 1月、東京美術学校へ入る準備のため、川端画学校にも通う。4月、東京美術学校西洋画科に入学する。1年のときは長原孝太郎による石膏デッサン、2年で小林万吾による人体デッサンの指導を受け、3年から和田英作の教室に入った。
1923年 信濃町の親戚宅に移る。
夏、京城に帰省して夏期休暇を過す。
秋、笹塚に下宿を変える。「風景(笹塚付近)」はこのころの作品。
1924年 夏ころ、池袋の姉の家に移る。
1925年 7月、同級と朝日連峰を歩き、続いて中西利雄らの後を追って南アルプスに行き、甲斐駒ケ岳、仙丈岳などに登る。
1926年 9月、第13回二科展に特別陳列された佐伯祐三の第一次渡仏作19点を見て感動する。
1927年 3月、東京美術学校西洋画科卒業。同期生に、猪熊弦一郎牛島憲之岡田謙三荻須高徳小磯良平らがおり、彼らと上杜会を結成する。4月以降7月以前、荻須高徳と佐伯祐三を下落合のアトリエに訪ねる。
9月20日、同行の荻須高徳とともに横浜からアトス2号に上船する。偶然、横手貞美と同室になり、また神戸から大橋了介が乗り込んでくる。11月初旬、パリ着。数日後ブールヴァール・デュ・モンパルナスのアトリエに佐伯祐三を訪ねる。この月、おそらく27日に藤田嗣治の誕生日のパーティに招かれる。
1928年 2月、佐伯祐三、荻須高徳、横手貞美、大橋了介と、ヴィリエ・シュル・モランとサンジェルマン・シュル・モランに写生旅行をする。春、パリ市の西南の外れにあるポルト・サンクルーに移る。
6月23日、佐伯祐三がパリ郊外のセーヌ県立エブラール精神病院に入院する。佐伯入院後、その看護の疲労で発熱して10日間静養し、離床後、椎名其二に案内され、中仏ドルドーニュに旅行する。ローマ時代の遺跡や洞窟内の動物壁画や線彫を見る。
8月16日、佐伯祐三没。
この頃、先輩の西村叡の紹介で彫刻家のオシップ・ザッキンと知り合い、その後帰国のためパリを離れるまで、ほとんど毎週のように土曜日の午後の面会日にザッキンのアトリエに通う。秋、椎名其二夫人の紹介で、横手貞美、大橋了介の三人でヴェトイユの空別荘を1年契約で借りる。石彫を試みたのは、ヴェトイユにおいてである。
1930年 11月末、一時帰国のつもりで、フランスを発つ。
1931年 1月、横浜に着いた後、20日程を東京の姉の家で過し京城に帰る。油絵20点。石彫6、7点を持ち帰る。
3月22日、横手貞美が病没。
5月、横手貞美の霊を弔うため長崎に行き、遺作展の作品選定を手伝い、また『故横手貞美滞欧遺作集』(山口長男撰、横手貞護・横手貞致編)に「横手君を想ひて」を寄稿する。
9月、有島生馬に口添えを依頼して作品10点を送り、そのうち「二人像」と「彫像」が第18回二科展に入選。
1932年 9月、第19回二科展に「風景」を出品する。
1933年 9月、第20回二科展に「卓上A」「卓上B」を出品し、この年から前衛的な作品が集められた第9室に陳列される。
1934年 9月、第21回二科展に「庭」「卓」を出品、第9室に陳列される。
12月10日、父太平衛没
1935年 9月、第22回二科展に「池」を出品し、第9室に陳列される。
この年、在朝鮮の二科展出品者の展覧会のために京城に来た東郷青児と初めて会う。東郷青児は山口家の2階に1カ月滞在する。
1936年 9月、第23回二科展に「熊」「臥」を出品し、特待となる。この時上京して初めて二科展を見る。
1937年 5月、第10回上杜会展(東京府美術館)に「庭」を出品。
9月、第24回二科展に「三人」「群」「杜」を出品。
12月、山本発次郎氏所蔵佐伯祐三遺作展に際して、『美之図』第13巻第4号に「追懐」を寄稿。
1938年 9月、第25回二科展に「象A」「象D」「象E」を出品し、会友に推挙される。
10月5日、峰岸義一、吉原治良山本敬輔、広幡憲、高橋迪章、桂ユキ子とともに発起人となり、東郷青児藤田嗣治を顧問として九室会を結成し、その創立総会を新宿中村屋で開く。
1939年 5月、九室会第1回展(日本橋・白木屋)に「作品A」「作品B」を出品する。また『九室』第1号に「感想」を寄稿する。
9月、第26回二科展に「作品A」「作品B」を出品。
9月20日から24日まで、油絵15点による山口長男近作展を銀座の青樹社で開く。
1940年 3月、九室会第2回展(銀座・三越)に「作品1」「作品2」を出品。同月、上杜会第13回展(東京府美術館)に「作品」を出品。
8月、第27回二科展に「白い円」「緑の環」を出品。
10月、紀元二千六百年奉祝美術展覧会(前期)に「双輪」を出品。
1941年 戦時情勢が緊迫してきたため、京城から作品を送るのが困難となり、二科展出品を中止する。
1942年 札幌市出身の野村きよと結婚する。
1945年 6月30日、召集され、第20師団79連隊に配属され、1カ月程訓練を受けて釜山西方の漁村三千浦に配備され砲座を築く作業に従ううち終戦を迎える。
10月、二科会再結成され、新会員に挙げられる。
1946年 1月8日、妻子をつれ京城を発ち日本に引き上げる。1カ月余り熊本市呉服町の親戚に仮寓した後、2月末上京して姉婿の港区芝車町75の丹宗敬陽方に落着く。この年から3年間二科会の事務を担当する。
9月、第31回二科展に「線A」「線B」「線C」を出品。
1947年 6月、第1回美術団体連合展(毎日新聞社主催、東京都美術館)に「象(A)」「象(B)」を出品。
9月、第32回二科展に「A」「B」「C」「D」を出品し第1回会員努力賞を岡田謙三とともに受賞。
同月、日本アヴァンギャルド美術家クラブが創設され、入会する。
11月、「岡田謙三の作品を観る」を『みづゑ』第505号に寄稿。
1948年 5月、第2回美術団体連合展に「空A」「空B」を出品。
9月、第33回二科展に「作品A」「作品B」を出品。
1949年 4月、二科春季展(日本橋・三越)に「楕円」を出品。
5月、第3回美術団体連合展に「双ツ」を出品。
9月、第34回二科展に「三ツノ円A」「三ツノ円B」を出品。
この年、杉並区上高井戸1-186の知人の家に移る。
1950年 4月、「想うこと」を『アトリエ』第279号に寄稿。
5月、第4回美術団体連合展に「象(かたち)」を出品。
9月、第35回二科展に「A」「B」を出品。
1951年 5月、第5回美術団体連合展に「作品」を出品。
1952年 3月、二科春季展に「作品」を出品。
9月、第37回二科展に「作品」「作品」を出品。
12月、国立近代美術館が開館し、その第1回展覧会「日本における近代絵画の回顧と展望」に「かたち」(1950年)を出品。
この年から合板(ベニヤ板)を使い始める。
1953年 5月、春季二科展に「作品A」「作品B」を出品。
6月、恩地孝四郎村井正誠吉原治良、滝口修造らと日本アブストラクト・アート・クラブを創設する。
9月、第38回二科展に「作品A」「作品B」を出品。
12月、国立近代美術館の「抽象と幻想」展に「象(かたち)」を出品。
この年暮に北多摩郡小平町大沼新田343藤岡別荘内(現、小平市美園町343)へ移る。
1954年 3月、ニューヨークでの第18回アメリカ抽象美術展(Riverside Museum,New York)に日本アブストラクト・アート・クラブの会員として出品。
4月1日、武蔵野美術学校教授となる。同月、春季二科展に「作品A」「作品B」を出品。
5月、第1回現代日本美術展(毎日新聞社主催、東京都美術館)に「作品(かたち)」「作品(かたち)」を出品し、安井曾太郎とともに優秀賞を受賞する。
9月、第39回二科展に「五つの線」「二つの形」「二つの組合せ」を出品。
1955年 1月、「プリミティーフから近代造形へ」を『美術手帖』第90号に寄稿する。同月、1954年度選抜第6回秀作美術展(朝日新聞社主催、日本橋・三越)に「作品(かたち)」を出品。
2月、国立近代美術館の「19人の作家-戦後の絵画、彫刻-」展に「かたち」(1949年)「かたち」(1951年)「二つ」(1953年)「作品A」(1954年)「かたち」(1954年)を出品。また第3回サンパウロ・ビエンナーレ展(7月開催)の日本の代表作家の一人に選ばれ、上記展覧会と併催された「サンパウロ・ビエンナーレ展出品作品展示」に「二つの組合せ」(1954年)「構成」(1955年以下同じ)「五つの線」「赤い線」「黄色いかたち」を出品。
2月19日、国立近代美術館の土曜講演で「絵についての私の考え」と題して講演。
4月、国立近代美術館の日米抽象美術展に「構成A」「構成B」を出品。
5月、第3回日本国際美術展(毎日新聞社主催、東京都美術館)に「構成(赤)」「構成(黄)」を出品。
9月、第40回二科展に「黄色い組立」「四角い構成」を出品。
1956年 3月、第28回ヴェネツィア・ビエンナーレ展(6月開催)の出品作家に選ばれ、国立近代美術館での国内展示に「作品B」(1954年、以下同じ)「二つの組合せ」「かたち」「かたち」「二つのかたち」を出品。
5月、第2回現代日本美術展に「平易な四角」「歪んだ四角」を出品。
9月、第41回二科展に「囲繞」「散開」「曲折」「象形」を出品。
11月、世界・今日の美術展(朝日新聞社主催、日本橋・高島屋)に「作品」「(組立て)」を出品。
1957年 5月、第4回日本国際美術展に「抽象」を出品。
9月、第42回二科展に「赤い角」「黄色い角」を出品。
1958年 1月、1957年度選抜第9回秀作美術展に「黄色い角」を出品。
1月、ヨーロッパ巡回日本現代絵画展(外務省、国立近代美術館、毎日新聞社主催)の出品作家に選ばれ、日本橋高島屋での国内展示に「丸と線」(「B(組形)」1957年)を出品。
5月、第3回現代日本美術展に「作品赤」「作品黄」を出品。なおこのときグラン・プリ作家(山口長男安井曾太郎脇田和岡鹿之助福沢一郎)の特別陳列が行われ、「かたち」(1948年)「かたち」(1949年)「かたち」(1950年)「かたち」(1954年、受賞作)「五つの線」(1954年)「交錯」(1954年)「丸と四角」(1955年)「歪んだ四角」(1956年)「黄色いかたち」(1957年)「丸と四角」(1957年)を出品。
6月、第2回グッゲンハイム賞美術展(ニューヨーク・グッゲンハイム美術館)に「作品・黄」を出品。同月、国立近代美術館の「抽象絵画の展開」展に「池」(1936年)「庭A」(1936年)を出品。
9月、第43回二科展に「形の組合せ」「二つの枡目」「二つの交又」「立形」を出品し、会員努力賞を受賞。
同月、オーストラリア、ニュージーランド巡回日本現代美術展(外務省、国立近代美術館、毎日新聞社主催)の出品作家に選ばれ、国立近代美術館での国内展示に「丸と線」(「B(組形)」1957年)を出品。
1959年 1月、国立近代美術館の「戦後の秀作」展に「かたち」(1953年)を出品。
5月、世界の中の抽象イタリア・日本美術展(朝日新聞社主催、日本橋・白木屋)に「双つの山」を出品。同月、第5回日本国際美術展に「四角い目」を出品。
6月、「色いろの告白私は何故茶色を使うか」を『芸術新潮』第10巻第6号に寄稿。
9月、第44回二科展に「堰形」「門形」「衝立」を出品。
1960年 1月、1959年度選抜第11回秀作美術展に「四角い目」を出品。
5月、第4回現代日本美術展に「凝形」「展形」を出品。
9月、第45回二科展に「丘形」「地形」「野形」を出品。
1961年 1月、1960年度選抜第12回秀作美術展に「展形」を出品。
5月、第6回日本国際美術展に「象」を出品。
9月、第46回二科展に「遠心」「翔態」を出品。
12月、戦後初めての個展を南画廊で開き、「転」「座」「置」「立」「重」「層」「構」「匍」などを出品。
1962年 1月、1961年度選抜第13回秀作美術展に「遠心」を出品。
2月、国立近代美術館の「近代日本美術代表作品シリーズ4現代絵画の展望」(会場、日本橋・三越)に「転」(1961年)を出品。
4月、昭和36年度芸術選奨文部大臣賞を受賞。
5月、第5回現代日本美術展に「幅」「量」を出品。
6月、国立近代美術館の「近代日本の造形-油絵と彫刻」展に「転」(1961年)を出品。
8月、唐津市役所のため陶板壁画「遊」を制作し、それを玄関ホールに飾る新庁舎が落成する。
9月、第47回二科展に「坦」「扉」を出品。
10月、1回日本アブストラクト・アート展(兜屋画廊)に出品。同月、第1回サイゴン国際美術展に2点出品。
1963年 1月、1962年度選抜第14回秀作美術展に「置」を出品。
3月、第7回サンパウロ・ビエンナーレ展(9月に開催)の出品作家に選ばれ、ブリヂストン美術館での国内展示会に「拡がった形」「幅」(1962年)「扉」(1962年)「方」(1963年以下同じ)「拡」「累」「充」「溢」「影」「浮」「聳」「伏」を出品。同月、ニューヨーク日本橋画廊で個展を開く。
4月、国立近代美術館京都分館の「現代絵画の動向」展に「転」(1961年)を出品。5月、第7回日本国際美術展に『屏形」を出品。
6月5日、「私のかたち」を読売新聞夕刊に寄稿。
9月、この年から二科展出品を中止し、後に二科会から退会する。
12月、神奈川県立近代美術館の「昭和初期洋画展」に「人」(1930年)「室内(B)」(1932年)「庭(A)」(1936年)を出品。
1964年 1月、第15回記念選抜秀作美術展に「作品(かたち)」(1954年)を出品。
5月、第6回現代日本美術展に「漠」「築」を出品。
10月、国立近代美術館の「オリンピック東京大会芸術展示近代日本の名作」に「象」(1961年)を出品。
1965年 2月、チューリッヒ市立美術館における「現代日本の絵画」展に「作品(かたち)」(1954年)を出品。
4月、ニューヨーク近代美術館のウィリアム・リーバーマンとドロシー・ミラーが組織した「新しい日本の絵画と彫刻(The New Japanese Painting and Sculpture)」展に「遠心」(1962年)を出品。
5月、第8回日本国際美術展に「連」を出品。
7月、国立近代美術館の「近代日本の油絵-所蔵作品による」展に「象」(1961年)を出品。
9月、国立近代美術館京都分館の「前衛絵画の先駆者たち」展に「二人像」(1930年)「人」(1930年)「庭」(1936年)「池」(1936年)「空」(1939年)を出品。
11月、個展を南画廊に開き、「劃」「割」「聚」「寄」などを出品。
1966年 5月、第7回現代日本美術展に「帳」「翼」を出品。
6月、神奈川県立近代美術館15周年記念の「近代日本洋画の150年展」に「庭」(1936年)「平面」(1958年)を出品。
1967年 5月、第9回日本国際美術展に「対」を出品。
12月、「彫刻の詩人…オシップ・ザッキンのこと」を『三彩』第223号に寄稿。
1968年 1月、東京国立近代美術館の「近代日本の油絵」展に「転」(1961年)、「象」(1961年)を出品。
5月、第8回現代日本美術展に「劃(黄)」「劃(赤)」を出品。
6月、瀬戸慶久の訪問を受けて「私の思うこと」を語り、これが武蔵野美術大学発行の『武蔵野美術』第66号に掲載される。
7月、武蔵野美術大学美術資料図書館で「山口長男教授作品展」が開かれ、「人」(1930年)「二人像」(1930年)「室内(B)」(1932年)「庭(A)」(1936年)「池」(1936年)「5つの塊」(1940年)「かたち」(1954年)「赤い線」(1955年)「散開」(1956年)「堰形」(1959年)「丘形」(1960年)「立」(1961年)「浮」(1963年)「複」(1965年、以下同じ)「互」「垂」「景」「方」の油絵18点と墨の素描11点、陶磁の絵付6点を出品。
9月、東京国立近代美術館の「東西美術交流展」に「転」(1961年)を出品。
同月、立正佼成会団参会館地階ロビーのタイルの壁画制作を依頼される。同会館は翌年9月に竣工する。
10月、日動画廊発行の『繪』第56号に佐伯祐三についての「追憶」を寄稿。
12月、個展を南画廊で開き、「弧」(面-四角)「垂(赤)」「長方形-横」「竝」「軌」「紋形」「脈」などを出品。
1969年 2月、「あしあと」を『芸術新潮』第230号に寄稿。
5月、第9回現代日本美術展の「現代美術20年の代表作」に「かたち」(1954年)を出品。
1970年 3月、大阪万国博美術展に「脈」(1968年)を出品。
6月、個展を鹿児島市の山形屋で開く。同月、「佐伯と四人の画学生」を『芸術新潮』第246号に寄稿。
7月、麻生三郎大沢昌助山口長男展(ギャラリーセゾン)。
1971年 4月、東京国立近代美術館の「近代日本美術における1930年」に「二人像」「作品」を出品。
同月、神奈川県立近代美術館の「戦後美術のクロニクル展」に「平面」(1958年)を出品。
5月、第10回現代日本美術展の「抽象-構造としての自然」の部に「黒」「黄」「赤」を出品。
9月、兵庫県立近代美術館での「開館1周年記念・毎日新聞創刊100年記念今日の100人展」に「座」(1961年)を出品。
1972年 3月、ミラノでの「日本の現代美術(Arte Contemporanea del Giappone 1972)」展に「軌」(1968年)を出品。
12月、個展を南画廊で開き、「紋」「黄」「赤」「漠」「画」「覆」「開」などを出品。
1973年 2月、乾由明との対談「ディアローグ」が『みづゑ』第816号に掲載される。
3月、麻生三郎大沢昌助柳原義達山口長男四人展(ギャラリーセゾン)。
5月、現代日本美術展-現代美術20年の展望(毎日新聞社主催、東京都美術館)に「黄色い組立」(1955年)と「垂」(1965年)を出品。
この年、シドニーのニュー・サウス・ウエールズ美術館(Art Gallery of New South Wales,Sydney)での「表面の美術-現代日本美術の展望(The Art of Surface-A Survey of Contemporary Japanese Art)」に出品。
1974年 3月、武蔵野美術大学教授を定年退職する。
5月、デュッセルドルフ市立美術館(Stadtische Kunsthalle,Dusseldorf)での「日本 伝統と現代(Japan Tradition und Gegenwart)」に「分」(1966年)「弧」(1968年)「和」(1972年)を出品。
同月、麻生三郎大沢昌助柳原義達山口長男展(ギャラリーセゾン)。
9月、デンマークのルイジアナ美術館(Louisiana Museet,Humlebaek)でのJapan pa Louisianaに「置」(1961年)「方」(1965年)「垂」(1965年)「分」(1966年)「弧」(1968年)「軌」(1968年)「和」(1972年)を出品。同月、山口長男津高和一二人展(大阪、ギャラリー本田)。
10月、『美術ジャーナル』復刊24号の座談会「絵画に於ける新しさ 画家はそれをどう考えるべきか」に、津高和一、乾由明、本田泰士、村田好夫とともに出席する。
11月、スエーデンのエーテボリ美術館(Goteborgs Konstmuseum med Konsthallen)のJapan i Bildに「置」「方」「分」「弧」「軌」「和」を出品。この展覧会は翌年1月から3月までHenie-Onstad Kunstsenterでも開催される。
1975年 6月、麻生三郎大沢昌助柳原義達山口長男四人展(ギャラリーセゾン)。
10月兵庫県立近代美術館の「開館5周年記念近代100年名画展」に「置」(1961年)を出品。
11月、個展を南画廊で開き、「合」「宇」「疏」「注」「座」「撤」「偏」「塁」「接」「遮」「文」「明」「示」「侍」「伴」「軌」の16点を出品。
12月、「楽しい個展」(大阪ギャラリー芦屋)に陶板画、小品の油彩、水彩、スケッチを出品。
1976年 4月、個展を大阪のカサハラ画廊で開く。
5月、東京都美術館の「戦前の前衛展」に「庭・B」(1934年)「White Painting」(1940年)「二人像」(1930年)を出品。
6月、上杜会五十周年展(日動サロン)に「過」「貌」を出品。また同展覧会図録に「上杜会を省みる」を寄稿。
1977年 2月、岡山県総合文化会館の「第15回名作展-日本の抽象絵画-」に「景」(1965年)を出品。
5月11日、「作家のことば(ものに学ぶ)」を『新美術新聞』に寄稿。
6月、東京セントラル美術館の「現代美術のパイオニア展」に「庭A」を出品。
10月、「あれこれの想い出」〈卒業生が語る「芸大コレクション」〉を『芸術新潮』第334号に寄稿。
同月、栃木県立美術館の「日本の現代美術展-国内美術と国際美術と-」に「赤」(1971年)「宇」(1975年)を出品。
1978年 8月、「佐伯さんと私たち」を東京国立近代美術館ニュース『現代の眼』第285号に寄稿。
10月、個展をスズカワ画廊で開く。11月、「楽しい個展」(ギャラリー芦屋)。
1979年 5月、第1回非具象の世界展(佐谷画廊)に出品。
同月、個展を盛岡市のMORIOKA 第一画廊で開き、「丸と線」(1957年)「置」(1961年)「寄」(1965年)「方」(1965年)「分」(1966年)「軌」(1968年)「竝」(1968年)「和」(1972年)「地」(1973年)「点」(1974年)「宇」(1975年、以下同じ)「注」「匍」「文」「遮」「過」「明」「偏」の18点を出品。
6月、個展を世田谷区成城の緑蔭小舎で開く。
7月、山口長男と7人の新人展(ギャラリー・ジェイコ)に出品。
9月、東京都美術館の「近代日本美術の歩み展」に「かたち」(1954年)を出品。
10月、神奈川県立近代美術館の「巨匠展シリーズ3現代美術・戦後展」に「平面」(1958年)「垂」(1965年)を出品。
11月、福岡市美術館開館記念の「近代アジアの美術-インド・中国・日本-」展に「転」(1961年)を出品。
同月、植木茂山口長男二人展(ギャラリートーシン)が開かれ、「竝」「軌」「弧」(以上1968年)「宇」「疏」「注」「匍」「偏」(以上1979年)の油絵8点の他水彩6点を出品。
1980年 4月、東京国立近代美術館と朝日新聞社の共催により「山口長男堀内正和展」が開催される。
9月、北九州市立美術館で「山口長男展」開催。
1981 10月、個展をギャラリー芦屋で開く。
1982 6月、小品展を緑蔭小舎で開く。11月、個展をギャラリー芦屋で開く。
1983 4月27日、東京小平市の昭和病院で没。
本年譜は、浅野徹編「山口長男略年譜」(「山口長男堀内正和展」図録、東京国立近代美術館、1980年)を転載したもので、一部を添削した。

出 典:『日本美術年鑑』昭和59年版(307-313頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「山口長男」が含まれます。
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