宇治山哲平

没年月日:1986/06/18
分野:, (洋)

 郷里大分県にあって独自の歩みを続けていた国画会会員の洋画家宇治山哲平は、6月18日午後零時40分、悪性リンパ腫のため大分県別府市の国立別府病院で死去した。享年75。明治43(1910)年9月3日、大分県日田市に生まれる。本名哲夫。昭和3(1928)年県立日田中学校を卒業し、家で画作に熱中。同5年日田工芸学校描金科に入学し蒔絵の技術を習得して同6年に卒業。同年大分県日田漆器株式会社に入り漆工・木工のデザインを担当する。同7年第2回日本版画協会展に「水郷の夏」で初入選。10年第10回国画会展に版画「秋酣」で初入選。13年「山肌A、B、C」ほかを出品して新興美術家協会賞を受け同会会員となる。14年より国画会展に油絵を出品するようになり、同17年第17回国画会展に「山峡紅葉」「山」を出品して褒状受賞。18年国画会会友、19年同会員となる。22年に12年より勤務していた西日本新聞社を退社し大分県立日田工芸試験所に入所する。25年、国画会の杉本健吉香月泰男らと型生派美術協会を結成する。この頃、福島繁太郎に認められ、26年より34年までフォルム画廊で毎年個展を開く。飛鳥、天平の美術にひかれ、古典美術の研究を進め、中国、アッシリア、エジプトなど世界の古美術へと視野を広め、39年オリエントからエジプトへと遊学。このころから円や三角形などの幾何学的形体による画面構成を始め、「絶対抽象の世界」を目ざすようになる。46年第12回毎日芸術賞受賞。48年第32回西日本文化賞を受賞。油絵具に方解石を混ぜた独自のマチエールで白地に明快な図形をちりばめ、静かで明るい、リズミカルな抽象画を描く。36年大分県立芸術短大教授となってより長く美術教育に従事し、46年同大学長に就任、48年同大を退いたのち別府大学教授となった。61年東京赤坂のサントリーホールの壁画「響」を制作、同年の国画会展に出品した「大和心」が最後の作品となった。著書に『美について想う』(45年、壱番館画廊刊)などがある。

出 典:『日本美術年鑑』昭和62・63年版(320頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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