堅山南風

没年月日:1980/12/30
分野:, (日)

 日本画壇の長老で芸術院会員の堅山南風は、12月30日午後3時39分、肺炎のため静岡県田方郡の別荘で死去した。享年93。同月24日の停電で暖房が切れ、この時ひいた風邪をこじらせたものであったが、寝込む直前まで絵筆をとっていた。南風は、1887(明治20)年9月12日父武次郎、母シゲの三男として熊本市に生まれ、本名熊次。早く父母を亡くし祖父のもとで育ち、土地の画家福島峰雲に師事、1909年上京し同郷の高橋広湖の門に入った。翌年巽画会に絵巻物「風の往来」を出品して褒状を受けるが、文展には4年連続して落選、13年の第7回文展出品作「霜月頃」はそれまでの歴史画から一転し、紫紅らが押し進めた色彩美を重んずる新感覚的画風への接近を示す作品で、大観の強い推薦により二等賞となった。しかし審査をめぐる意見の食違いから大観は文展審査員を辞し日本美術院を再興、南風もまた美術院に走り、大観を師として仰ぐ、美術院に入った当初スランプに陥り、古径や青邨・靫彦らの陰に隠れた感があったが、写生の基本に戻り次第に花鳥画に活路を見出すようになる。22年第9回院展「桃と柘榴」あたりから作品は充実の度を加え、24年には同人、以後「魚楽図連作」(26年)「夏題十趣」(27年)「銷夏帖連作」(29年)「射翠帖連作」(34年)などを発表し、気負いのない「知足安分」の画境を展開した。戦後45年、日展への参加要請を日本美術院が受諾したこともあり、46年より審査員を度々つとめ55年に参事となっている。戦後の南風芸術を特色づけるものは肖像画であり、54年第39回院展「O氏像」を皮切りに、「武者小路先生」(55年)「横山大観先生」(57年)「静子夫人」(60年)「K先生」(64年)「新涼の客」(69年)など、純粋素朴な南風の人柄そのままに、明るい色彩と大らかな画風の作品を描いた。またこの間、64年より3年をかけて日光東照宮本地堂の天井画「鳴竜」(狩野安信筆、36年焼失)を復元している。米寿の75年にはタヒチへ写生旅行をして色彩は一層鮮明になり、最期まで若々しさを失わなかった。58年芸術院会員、63年文化功労者、68年文化勲章を受章、69年には熊本市名誉市民となっている
年譜
1887 9月 12日、熊本市で、父武次郎、母シゲの3男として生まれる。本名熊次。
1888 8月 1日、母シゲ落雷のため不慮の死をとげる。享年27。
1893 5月 21日、父武次郎病没。享年40。以後祖父に養育される。
1894 4月、熊本市立壷川小学校に入学する。
1898 3月、壷川小学校を卒業、4月、高木高等小学校に入学する。
高等小学校では、自由画に才能を発揮、1年の時写生した「ざくろ」が図画教師に激賞される。
1900 この頃「鯉の画人」として有名な地元の雲林院蘇山の絵に傾倒する。
1903 熊本市物産館で開催された橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草ら20数人出品の日本美術院巡回展を見、朦朧派の新しい画風に心酔する。
1904 破産し、代々の家を閉じて、西子飼町源空寺に仮寓する。
9月、祖父武八没、享年82。
1905 この頃、月に1、2度、図書館へ行き、『日本美術』『国華』などの木版印刷の口絵を模写したり、梶田半古、鏑木清方の挿絵を写す。
1906 この頃より地元杉谷雪樵系の画家福島峰雲に師事する。
1909 5月 3日、同郷の先輩山中神風に連れられて上京。車中で『十八史略・尭舜篇』の「南風之詩」より「南風」の号を自ら選ぶ。
神風の紹介で、熊本山鹿出身の歴史画家高橋広湖の門に入る。
秋、「燈火」を第三回文展に初出品するが落選。
1910 3月 第11回巽画会に「往来」を出品し三等褒賞を受ける。
秋、第4回文展に源義家の故事を題材にした「義家観飛雁行」(現在は「飛雁行を見る」と改題)を出品、落選する。
1911 生活の窮状を見かねた師広湖が、『報知新聞』連載小説「徳川栄華物語」の挿絵を代筆させ、月30円の手当てを与える。
巽画会に甲冑棚を題材にした「弓矢神」を出品して三等銅牌を受賞する。
秋、「七媛」第5回文展に出品したが落選。
1912 6月 2日、師高橋広湖急逝。
巽画会出品の「路辺」一等褒状を受賞。
第6回文展に六曲半双の「木曾義仲」を出品したが、落選する。
1913 スランプに陥り、巽画会に出品の「遅日」が二等褒賞になったほか、勧業展、日本画会展と落選する。
「霜月頃」が第7回文展に初入選、最高の二等賞となり、横山大観の激賞を受ける。
「霜月頃」は旧藩主細川護立侯に買い上げられ、以後、細川侯の庇護を受ける。
1914 横山大観に師事。
夏、熊本に帰省。
日本美術院が再興されると文展出品をやめ、「日和つづき」を第1回院展に出品、入選する。
1915 3月、佐藤光(のち、三栄と改名)と結婚。
第2回院展に労働者の群像を描いた「作業」を出品し、入選したが、大観から「題材の品が悪い」と叱られる。
1916 11月 25日、沈滞ぎみの画境を打開するため、荒井寛方のインド旅行に便乗して海路カルカッタに向かう。
約2カ月間、市内や郊外に出かけ、風景、人物のほか、博物館の仏像を写生する。
1917 2月、ブッタガヤ、デリーを旅し、高原の都市シムラ、ダージリンでヒマラヤ連峯やその周辺の写生をする。
帰途ボンベイに立ち寄り、エレファンタ石窟の仏教彫刻に感銘、15日間写生に費やす。
4月、帰国。
9月、第4回院展に、インドでの印象を八曲屏風に描いた「熱国の夕べ」を出品したが、赤や緑の強い色彩を使ったため、「南風、色盲となる」と酷評される。
1918 この頃より健康をそこね、極度のスランプに陥る。
1919 9月、第6回院展に出品した「ダリヤ」が落選。
1920 健康恢復と気分転換を図るため、弓道を始める。
この頃より花鳥画の制作のため東京近郊、山梨あたりまで写生族行する。
1921 雪中の美人を描いた六曲一双屏風「雪の朝」を制作。
10月、織田観潮、鴨下晃湖らと絵画研究会翡翠会を結成する。
1922 第9回院展に3年振りに出品した2曲1双の「桃と柘榴」が横山大観に好評され、スランプから脱却し始める。
1923 第10回院展に2曲1双の「粟と浦島草」を出品。
9月 1日、院展開催日に大震災起こる。
1924 3月、日本美術院同人に推挙される。
9月 第11回院展に「霜旦」「残照」の双幅を出品。
1925 春、帰郷する。
第12回院展「梅花遊禽」(6曲1双)。
この年、「大震災絵巻」3巻を制作。
1926 東京府美術院評議員に任命される。
5月、聖徳太子記念奉讃美術展に「讃春舞」を出品。
第13回院展に5連作「魚楽図」を出品。
12月、巣鴨より小石川区の細川邸の一画に移転する。
1927 6月、東京会名家新作展に「淵」を出品。
第14回院展に「驟雨」「日ざかり」など夏の風物10種を装飾的、写実的にとり上げた「夏題10趣」を制作する。
この頃から民謡踊りに熱中し、写生を兼ねて日本各地を民謡を求めて歩く。
1928 3月、第13回美術院試作展に「暮雪」を出品。
夏 熊本に帰郷し、兄文八の借金返済のため画会を行う。
第15回院展に「暁露」「微風」の双幅を出品する。
1929 3月、第14回美術院試作展に「浅春」「水温」「晴嵐」を出品。
9月 第16回院展に「巣籠」「朝顔」「細雨」「日明」「秋草」の5連作の「銷夏帖」を出品。
秋、横山大観の推薦で、新築した日光東照宮朝陽閣の障壁画揮毫のため、中村岳陵荒井寛方と日光へ行き、12月30日まで滞在して制作する。
1930 3月、第2回聖徳太子記念奉讃美術展に「鱗光閃々」を出品。
4月、ローマ日本美術展に「水温」「朝顔」「巣籠」の3点が選ばれ、出品される。
1931 第18回院展「争魚」。
『美術新論』 10月号に「苦難時代を語る」を執筆。
10月中旬、病気保養のため長岡市に赴く。
1932 3月 東京・日本橋三越の満州派遣軍慰問展に「うごひ」を出品。
3月、第16回美術院試作展に「うごひ」「けし」を出品。
第19回院展に「あげ汐」「日午」を出品。
1933 第20回院展に「花繚乱」を出品。
4月、第6回茨城美術展に「雨後」を賛助出品する。
10月、院同人新作画展に「上げ汐」を出品。
12月、皇太子誕生を祝して美術院同人一同謹作の画帳を制作、翌9年2月22日、画帳『旭光帖』乾・坤二帳を献上する。
1934 2月、美術院同人新作展に「淵」を出品。
3月、第18回美術院試作展に「雨霽」「麗」の2点を出品。
第21回院展に、小動物、小魚、鳥を水墨、淡彩、設色の様式で10点連作形式にまとめた「射翠帖」を出品。
9月中旬より一週間、福島地方へ写生旅行をする。
1935 3月、東京府美術館10周年記念現代総合美術展に「鱗光閃々」が選ばれ、展示される。
第19回美術院試作展に「日午」を出品。
9月、帝展の西沢笛畝、松本姿水、院展の酒井三良の4名で研究会「伸々会」を結成する。
1936 2月、新帝展に「ぼら網」を出品、李王家買い上げとなる。
第23回院展「白雨」。
10月、府下砧に転居。
同月中旬、越後湯沢より秘境清津峡谷へ写生旅行をする。
この頃より俳句を作り始め、武蔵野吟社に入る。
1937 9月、第24回院展「朔風」出品。大観の激賞を受く。
1938 3月、東京の広島晃甫、奥村土牛ら、京都側より小野竹喬宇田荻邨金島桂華山口華楊徳岡神泉と丼丼会を結成、第1回展に「白雨」「斜陽」「水温む」の3点を出品。
9月、第2回文展審査員。
第25回院展に「残照」(六曲一双)を出品。
10月、第2回文展に「雨後」を出品。
1939 1月中旬より胃腸病の療養のため、甲府市外の油村温泉で10日間滞在する。
2月、「惜春」を制作する。
9月、第26回院展に「千里壮心」(六曲一双)。
1940 4月、前年度院展出品作「千里壮心」が福岡日々新聞社が紀元2600年を記念して創設した第1回西日本文化賞に選ばれる。
春、『現代名家自選素描第三輯堅山南風魚類篇』(芸艸堂)刊行。
7月、はじめての個展を開催(東京佐藤梅軒画廊)。主宰する南風塾を翠風塾と改称する。
この年、『堅山南風』(美術春秋社)が刊行される。
1941 9月、国際文化振興会主催の仏印巡回日本画展内示会(日本橋三越)に「泉水」が展示される。
9月、第28回院展に「新涼」(六曲一双)を出品。
1942 2月、美術院同人軍用機献納作品展に「爛漫」を出品する。
日本画家報国会軍用機献納作品展に「春瀬」を出品する。
1943 1月、全日本画家献納画展に「薫風」を出品。
1944 6月、千葉県安房郡清澄寺の杉戸十面に揮毫する。
11月、文部省戦時特別美術展に「赤絵皿の鯉」を出品。
1945 6月、横山大観と一緒に山梨県山中湖畔に疎開する。
9月 帰郷。
11月、美術院小品展に「栗」を出品。
帝国芸術院より文部省の主催する日本美術展への参加要請を日本美術院が受諾する。
1946 3月、文部省主催第1回日展に「薫風颯々」を出品。
9月、第31回院展に「八朔」を出品。
10月、第2回日展に「潮」を出品。審査員。
1947 第32回院展に「朝凪」「片影」「淙流」の3点を出品する。
第3回日展「犬」、審査員。
この頃より聴力衰え、補聴器を使用する。
1948 第33回院展に「新涼」を出品。
1949 第34回院展3点連作「蔬果図」を出品する。
1950 6月、第6回日展審査員。
秋の第35回院展に「新涼雅品」を出品。
1951 5都連合新作展第1回展に「祝い日」を出品する。日展運営会参事、第7回日展審査員となる。
第36回院展に「白雨」出品。
外務省より外国公館装飾用の日本画の依頼を受け、「曙色」を制作する。
1952 3月、「白雨」が文部省買い上げ美術品となる。
第8回日展に「新涼」を出品。
1953 外務省は4月の皇太子殿下のイギリス女王戴冠式列席を期して、欧米各国大使館の装飾用として30数点の日本画を配置したが、「曙色」はサンフランシスコ総領事館に掲額される。
6月、創刊された日本画美術誌『萠春』に「大観、玉堂先生の近業」を執筆する。
第38回院展に「向日葵」「睡蓮」の2点を出品。
第9回日展に「燦日」を出品。審査員。
1954 7月、奥村土牛、酒井三良らと箱根に旅行する。
9月、第39回院展に「O氏像」(モデル奥村土牛)出品。
第10回日展に水墨淡彩の「雨霽」を出品。
11月、三越50周年記念東西大家日本画展に「春流」を出品する。
1955 3月、日本美術院創立60周年記念日本美術院回顧展に「霜月の頃」「白雨」が展示される。
横山大観企画の水墨小品展玄皎会第1回展に「晴暉」「暁色」の2点を出品する。
第40回院展に「M先生」出品(モデル武者小路実篤)。
第11回日展に、参事として「花更紗」を出品。
1956 3月、堅山南風郷倉千靭門の合同塾展旦生会が結成され、その第1回展に「青麦」を賛助出品する。
第41回院展に「虹鱒」「鯉」の2点を出品。
第12回日展「朝暉」(昭和50年「日午」と改題)を出品。審査員。
この年、熊本県文化功労者に推挙される。
1957 春の美術院小品展にスケッチ2点「養魚池」「浅間晴日」を出品。
3月、堅山・郷倉合同塾展第2回旦生会展に「鳩」を賛助出品する。
第42回院展に「横山大観先生」を出品する。
日展参事として第13回日展に「画室にて」を出品、これが日展出品作としては最後の作品となる。
1958 1月、東京・深川富岡八幡宮に「鯉」の大額を奉納する。
2月 26日、横山大観没。
4月、伊東深水とともに日本芸術院会員に推挙される。
5月、日本美術院が財団法人組織となり監事に就任、同年理事となる。
外務省・東京国立近代美術館主催のオーストラリア・ニュージーランド巡回の「日本現代美術展」に「白雨」が選ばれる。
美術雑誌『造形』10月号に堅山南風特集が掲載される。
1959 3月、伊東深水との二人展に「立葵」ほか2点を出品する。
4月下旬、熊本に帰省の折肺炎となり、熊本大学附属病院に3ヶ月入院。
1960 随想「故郷に病みて」を美術雑誌『萠春』75号に執筆する。
6月、堅山南風素描展(銀座松屋)に素描60点を出品する。
第45回院展に「静子夫人」(大観夫人)を出品する。
1961 4月、仙台、石巻海岸にスケッチ旅行、ついで5月、房州和田浦に滞在。
深水2人展に寺内萬治郎長谷川昇を加えて交晴会と改称する。
第46回院展に「凪」出品。
1962 アメリカの週刊誌『タイム』の依嘱により制作した「松下幸之助像」が同誌2月23日号の表紙となる。
7月、秋田県を旅行。
この年、邦画会より『巨匠画家シリーズ第1輯堅山南風画集』が発刊される。
第47回院展に「知秋」出品。
1963 第48回院展「K先生」(モデル金山平三)と「肥後椿」を出品する。
10月、文化功労者に推挙される。
1964 4月、妻および養女久彩子ととも帰郷。
5月、奈良、大阪方面を旅行、葛井寺(藤井寺市)の国宝千手観音像をスケッチし、第49回院展に「慈眼」と題して出品。
東京国立近代美術館に「応接間の人」「K先生」を寄贈する。
勲三等旭日中綬章を受ける。
11月、先年焼失した日光輪王寺本地堂の天井画「鳴龍」の復元依頼を受ける。
1965 4月から6月にかけて京都、奈良の寺社にある龍の絵を見学、11月末、下絵完成する。
1966 4月 3日、「鳴龍」の本描きを始め、7月27日完成。
12月、東京浅草待乳山聖天本龍院から依嘱の本堂天井画、内陣の大杉戸「朝暾」「夕月」の2面を完成する。
この年、難波専太郎著『堅山南風』が美術探求社より刊行される。
1967 11月、中禅寺(立木観音)五大堂外陣の大天井画「瑞龍」が完成する。
この年、熊本市民開館緞帳の下絵を制作。
1968 11月 文化勲章を受章する。
1969 1月 11日付『東京新聞』夕刊に「横山大観先生と私」を執筆する。
第54回院展に「新涼の客」(モデル同郷の俳人中村汀女)を出品する。この年、熊本名誉市民となる。
6月、奥日光、金精神社本殿の天井画「龍」を制作する。
7月、日光中禅寺五大堂の杉戸絵「牡丹」「唐獅子」四面を完成する。
1970 『鳴龍完成記念図録』を大塚巧芸社より自費出版する。
第55回院展に「雅日」出品。
1971 2月、盲腸炎の手術をし、2週間入院する。
9月、第56回院展に「更紗の中から」「小坂氏の肖像」の2点を出品する。
9月、菊地芳一郎著『堅山南風』(時の美術社)が出版される。
10月 9日、妻三栄、脳血栓のため死去。
1972 9月、静岡県韮山町に山荘を求める。
第57回院展に「黄昏」を出品する。
この年、熊本市蘇峰記念館のため、「徳富先生」を制作する。
1973 1月、日本画の系譜-先生と弟子展に新作「古代壷の花」を出品する。
4月、韮山町の山荘手狭のため、静岡県田方郡に山荘を建築する。以後当地に滞在することが多くなる。
第58回院展に「野に呼ぶ」出品。
1974 佐賀県基山町中山真語正宗滝光徳寺より依頼の「弘法大師像」「教祖像」の2点を完成する。
春、飛騨高山、下呂温泉に旅行。
第59回院展に「春の雪」を出品する。
1975 3月、米寿を記念して松尾敏男とともにタヒチへスケッチ旅行をする。
5月~6月、米寿記念堅山南風花・富士展を東京、大阪の両高島屋で開催し、「日本の春」など13点を出品する。
第60回院展に「ボラボラ島にて」「椰子と踊り子」を出品。
10月、熊本で堅山南風米寿記念展が開催され、「霜月頃」以下50点が出品される。
1976 4月、銀座北辰画廊でタヒチの風物を描いたタヒチの旅から-堅山南風近作展を開催し、「薄暮」など11点の絵と30数点のスケッチを出品する。第61回院展に「夕べの唄」を出品。
1977 前年暮れより正月にかけて沖縄に旅行する。第32回春の院展に「装える人」を出品する。
9月、川崎市川崎大師平間寺より依嘱されていた「龍」が完成。
10月、村瀬雅夫著『庶民の画家 南風』が南風記念館から発行される。
1978 1月 4日より『読売新聞』紙上に自伝抄「思い出のままに」を連載。
3月、日本放送出版協会より『現代日本画家素描集4 堅山南風インド・タヒチの旅から』が出版される。
同月、日本橋高島屋で素描集出版記念堅山南風素描展が開催され、インド・タヒチのスケッチ60数点が展示される。
6月、神奈川葉山町の横浜孝道教団本仏殿の大壁画、「大雪山施身聞法」「永劫の光」「聖晨」「聖苑追慕」「歓喜のとき」天井画「瑞気一天」の6点が完成する。
10月より11月にかけて、東京、大阪、熊本で、堅山南風自選展を開催。
11月、日本放送出版協会より『堅山南風素描「花」』を出版する。
1979 3月、第34回春の院展に「花瓶と花」を出品する。
6月、朝日新聞社より『堅山南風画集』が刊行される。
(『堅山南風画集』朝日新聞社 昭和54年 所載年譜参照)

出 典:『日本美術年鑑』昭和56年版(284-288頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「堅山南風」が含まれます。
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