富取風堂

没年月日:1983/02/12
分野:, (日)

日本美術院監事の日本画家富取風堂は、2月12日急性気管支炎のため千葉市の国立千葉東病院で死去した。享年90。本名次郎。晩年は穏やかな花鳥画で知られた富取は、明治25(1892)年10月1日東京日本橋に生まれ、同38年歴史画を得意とした松本楓湖の安雅堂画塾へ入門する。同画塾は放任主義教育であったとされ、今村紫紅、速水御舟ら新傾向の作家を輩出したことで知られる。大正3年、楓湖門の先輩紫紅が結成した赤曜会に加わり、自らも目黒に居住する。同会は翌年3回の展覧会を開催し、急進的な日本画の研究会として注目されたが、大正5年紫紅の死をもって解散した。大正4年、再興院展第2回に「河口の朝」が初入選し、その後官展へも出品したが、同9年の院展第7回に入選した「鶏」で草土社風の厳しい細密描写による作風を示し、以後同展へ連続入選を果し、同13年日本美術院同人に推挙された。その後、昭和12年第24回院展出品作「葛西風景」あたりから、その作風は素朴な趣を見せ始める。戦後は、同33年財団法人となった日本美術院の評議員となり、同41年第51回院展に「母子の馬」で文部大臣賞を受賞、同44年には日本美術院監事となる。この間、同42年に千葉県文化功労者として表彰された。また、同51年からは横山大観記念館常務理事をつとめた。没後葬儀は日本美術院葬として執行され、同美術院理事長奥村土牛が葬儀委員長をつとめた。
再興院展出品目録
大正4年 河口の朝
大正9年 鶏
大正10年 北国の冬
大正11年 芍薬
大正12年 漁村早春/山邑首夏
大正13年 踊の師匠/唄の師匠(同人推挙)
大正14年 枯梢小禽図
大正15年 細流青蘆/石橋釣客/雛妓納涼図
昭和2年 野菜図
昭和3年 遊鯉(其一)(其二)
昭和4年 さくら/柳
昭和5年 芍薬
昭和6年 朝光(葛飾二景の内浦安)/薄光(葛飾二景の内中川)
昭和7年 軍鶏
昭和8年 雪後争鳥
昭和9年 もみぢづくし
昭和10年 花蔭
昭和11年 斜陽(夏すがた其一)/夜(夏すがた其二)
昭和12年 葛西風景
昭和13年 厩舎
昭和14年 丘の畑
昭和16年 午日/潮騒
昭和17年 漁村の初夏
昭和18年 秋の草
昭和21年 朝顔/夕
昭和22年 村荘晩春/暮雨/夕映
昭和23年 沼畔残照
昭和24年 仔馬
昭和25年 漁港の朝
昭和26年 夕顔
昭和27年 洋蘭
昭和28年 花
昭和29年 花篭
昭和30年 初秋
昭和31年 群魚
昭和32年 花
昭和33年 秋彩/蟹
昭和34年 残照
昭和35年 夕
昭和36年 駅路
昭和37年 暮色
昭和38年 雨の花
昭和39年 親子猿
昭和40年 河畔
昭和41年 母子の馬(文部大臣賞)
昭和42年 群魚/厩二題
昭和43年 ばら園
昭和44年 朝
昭和45年 樹映
昭和46年 麦秋
昭和47年 初夏
昭和48年 池畔
昭和49年 秋の畑
昭和50年 うすれ陽
昭和51年 初夏
昭和52年 残雪
昭和53年 猿と葡萄
昭和54年 緑雨

出 典:『日本美術年鑑』昭和59年版(296-297頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「富取風堂」『日本美術年鑑』昭和59年版(296-297頁)
例)「富取風堂 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10002.html(閲覧日 2024-04-18)

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