永地秀太

旧帝展審査員元東京高等工芸学校教授洋画家永地秀太は、淀橋区の自宅で糖尿病療養中のところ脳溢血を併発12月14日逝去した。享年70。明治6年7月15日山口県に生れ、同23年9月松岡寿に師事、25年明治美術会附属教場絵画科に入り、27年4月卒業した。35年中村不折石川寅治等と大平洋画会創立に参加、又31年から陸軍中央幼年学校に勤務して大正8年教授となり、同9年退官、同年より文部省在外研究員として外遊、11年7月帰朝して8月東京高等工芸学校教授に任ぜられた。この間諸展に作品を発表、第3回文展出品「静物」は褒状となり、第7回文展出品「しぼり」は3等賞に推された。大正11年仏国官設美術展へ本邦美術品を出陳するに際してその事務を囑託され、翌年同展の準備委員、同年仏国政府よりレジヨンドノール勲章を贈られた。第4回展より審査員たること数回、昨年まで東京高等工芸学校にあつて後進の教育にあたつてゐた。

青山義雄

読み:あおやまよしお  洋画家青山義雄は、10月9日午前9時34分、膀胱がんのため神奈川県茅ヶ崎市の茅ヶ崎徳洲会総合病院で死去した。享年102。明治27(1894)年1月10日、現在の神奈川県横須賀市に生まれ、父の転勤にともない三重県鳥羽、北海道根室で幼年時代をすごし、同39年に根室商業学校に入学した。しかし同41年、画家をこころざして同学校を中退し、講義録をもとに絵を独習しはじめた。同43年に上京、翌年1月に日本水彩画会研究所に入所し、大下藤次郎に師事し、同年10月に大下が没すると、永地秀太に指導をうけた。大正2(1913)年、根室にもどり、水産加工場、牧場、小学校の代用教員など、さまざまな仕事をしながら制作をつづけた。かねてより外国に渡る意志をもっていたが、同10年にフランスに渡った。パリでは、はじめアカデミー・ランソン、ついでグラン・ショーミエールでデッサンを学び、また日本人会の書記として、館に住み込みで働くようになった。また、この年には、はやくもサロン・ドートンヌに初入選し、翌年にも「二人の男」が入選した。この日本人会において、林倭衛、土田麥僊、木下杢太郎、大杉栄、小宮豊隆などパリに滞在する多くの日本人画家や文化人と親交した。同14年、喀血したため、医師のすすめで南仏カーニュに転居した。翌年、ニースの画廊に委託していた自作が、アンリ・マティスの眼にとまり、その色彩表現を賞賛されたことが機縁となり、その後マティスに作品の批評を受けるようになった。また、翌年、マティスを介して福島繁太郎を知り、その後福島からは物心にわたる援助を受けることになった。一方、フランスで制作をつづけるかたわら、昭和3(1928)年の第6回春陽会展から出品し、同9年の第12回展まで出品をつづけ、会員となっていたが、この年に同会を辞した。また、同年には、和田三造の紹介により、商工省の嘱託となり、ヨーロッパ各地の工芸事情を視察した、その結果を報告するために同10年に帰国した。帰国の翌年には、梅原龍三郎の勧誘をうけて国画会会員となった。同12年には、第1回佐分真賞を受賞、翌年には、第2回新文展の審査員として、幼年時代をすごした北海道根室に取材した「北洋落日」を出品した。同27年、フランスに渡り、ニースに住むマティスに再会、カーニュにアトリエをかまえて制作をつづけた。同32年には、63才にして運転免許をとり、ヨーロッパ各地を取材旅行するようになった。その後は、平成元(1989)年に帰国するまで、日仏間を往還しながら、旺盛な制作をつづけ、国内では個展において新作を発表していた。同5年、中村彝賞を受賞、同7年には茨城県近代美術館において中村彝賞受賞記念して初期から近作にいたる約120点からなる回顧展が開催された。南仏特有の明るい陽光からうまれた、その鮮やかな色彩表現は、終生衰えることはなかった。

斎藤長三

武蔵野美術大学名誉教授で独立美術協会会員の洋画家斉藤長三は1月1日午後10時55分、心不全のため東京都杉並区の病院で死去した。享年83。明治43(1910)年9月6日山形県酒田市漆曽根に父興一郎、母たけの三男として生まれる。北平田小学校を経て大正12(1923)年県立酒田中学校([日制])に入学。同校美術教師で水彩画家であった井口亘のすすめにより山本鼎著『由画の描き方』等を手引きに油絵を描き始める。昭和3(1928)年同校を卒業。同4年東京高等工芸学校に入学し、永地秀太に師事。同校在学中の同5年第5回1930年協会展に「母子」で初入選。同6年第1回独立美術協会展に「風景」「自画像」で入選し、以後同展に出品を続ける。同7年東京高等工芸学校を卒業。同年糸園和三郎らと同人展プルミエ洋画展を開催。同9年グループ「飾画」を結成する。同10年第5回独立展に「馬車の到着」「五反田駅「わが旅への誘い」を出品しD賞受賞。同年の同展に出品された海老原喜之助の「曲馬」にひかれて海老原を訪ね兄事する。同11年独立美術協会に会友制度が導入されるに伴い同会会友となる。同15年第10回独立展に「市井風物A・雪」「市井風物B・月」「市井風物C・川」を出品して岡田賞受賞。また、同年の紀元2600年奉祝展に「働く少年たち」を出品する。同16年独立美術協会会員となり、同年9月より自由学園講師となる。戦後も独立展に出品する一方、秀作美術展、日本国際美術展、現代日本美術展等に出品。同31年武蔵野美術大学教授となり、また日本大学芸術学部講師となる。同35年10月東京八重洲の大丸デパートで「斉藤長三作品展」を開催。同39年第32回独立展に「山麓の村」「高原の村」を出品してG賞受賞。同48年郷里の山形美術博物館で「斉藤長三画業展」を開く。同54年より独立美術協会会員10人をメンバーとする十果会にも出品。同56年イタリアを訪れ、主にフィレンツェに滞在する。同年9月武蔵野美術大学美術資料図書館で「斉藤長三教授作品展」が開かれる。同57年同校を退職し同名誉教授となる。平成5(1993)年2月「ねりまの美術93」として深沢紅子と二人展を開催した。画歴、参考文献は同展図録に詳しい。昭和初期にはシュール・レアリスム風の作品を描いたが、同10年代には労働者のいる風景を多く描くようになり、同20年代後半から30年代にかけて抽象美術が隆盛した時期には対象の形態、色彩に画家独自の改変を加え、白を基調とする抽象化された風景を描いた。同40年代からは華麗な色調の風景画を描き続けた。

江藤哲

日展参与、東光会会員の洋画家江藤哲は、9月21日午後5時30分、肺動脈りゅう破砕のため鹿児島市の病院で死去した。享年82。明治42(1909)年5月21日、大分県東国東郡に生まれる。本名哲。大分県東国東郡竹田津尋常小学校を経て、昭和2年同県杵築中学校を卒業。同3年東京高等工芸学校図案科に入学。和田香苗、永地秀太に師事。同4年同舟舎に通い始める。同6年東京高等工芸学校図案科を卒業し、通産省特許局に勤務する。同局には工芸学校時代の校長であった松岡寿がいた。同8年熊岡美彦の主宰する熊岡道場に通い始め、同年第14回帝展に「人物」で初入選。翌9年第2回東光展に「緑の着物」「像」で初入選し、第15回帝展にも「黒衣座像」で入選する。同11年第4回東光展に「四人」「画架の前」を出品してY氏奨励賞受賞。同12年第5回同展に「緑衣」「レストラン」を出品して東光賞を受け、翌13年同会会友となる。同14年第7回東光展に「猫の居る庭」「室内」「庭」を出品して再びY氏奨励賞を受け同会会員に推される。戦後も日展、東光展に参加し、同22年第3回日展では小出楢重の自画像に触発されて描いた「画家の像」で特選受賞。同40年日展会員となる。同43年特許庁を退職し、同年夏に欧州へ渡りオランダ、イタリア、ギリシア、スペイン、フランスを3カ月間巡遊。同48年夏にも欧州を旅した。同52年東光会副理事長、同53年日展評議員となり、同55年第12回日展に「静物」を出品して内閣総理大臣賞を受けた。同61年日展参与、翌62年日展評議員となる。特許庁を退いた後、毎年個展を開く一方、同46年より56年3月まで名古屋芸術大学教授として後進を指導。また同47年より隔年で『江藤哲デッサン画集』を出版。平成2年には人物、風景、静物、デッサンの4巻からなる『江藤哲画集』を刊行している。人物、風景、静物と幅広い題材を描き、堅持な写実にもとづきながら、モティーフを知的に配置し、面的にとらえる落ちついた画風を示した。 帝展、新文展、日展出品歴第14回帝展(昭和8年)「人物」、第15回「黒衣座像」、文展鑑査展(同11年)「裸婦群像」、第1回新文展(同12年)「二人」、第2回「母子」、第3回「人物」、紀元2600年奉祝展(同15年)「二人」、第1回日展(同21年春)「花と少女」、第2回(同年秋)「花」、第3回(同22年)「画家の像」(特選)、第5回「画家の像」、第6回「夏の子供達」、第7回「雨と子供」、第8回「海浜」、第9回「座像」、第10回(同29年)「座像」、第11回「座像」、第12回「座像」、第1回社団法人日展(同33年)「座像」、第2回「座像」、第3回「座像」、第4回「父子」、第5回「座像」、第6回「夏」、第7回「魚屋」、第8回「屋台店」、第9回「夏」、第10回「朝市」、第11回「夏」、第1回改組日展「初秋」、第2回「野道」、第3回「静物」、第4回「菖蒲花」、第5回「静物」、第6回「静物」、第7回「静物」、第8回「静物」、第9回「小菊のある静物」、第10回(同53年)「室内静物」、第11回「室内静物」、第12回「静物」、第13回「室内静物」、第14回「野菊」、第15回「犬吠埼」、第16回「犬吠埼」、第17回「糸車のある静物」、第18回「がくあじさいの花のある静物」、第19回「犬吠埼風景」、第20回(同63年)「果物のある静物」、第21回「松林」

押田翠雨

日本画院同人の日本画家押田翠雨は、5月21日午後5時25分、肺不全のため東京都新宿区の慶応病院で死去した。享年92。明治25(1892)年9月29日東京小石川に哲学者井上哲次郎の次女として生まれ、本名スガ子。同44年東京府立第二高等女学校(現都立竹早高校)を卒業し、永地秀太に師事、洋画を学ぶ。大正13年二科会信濃橋(大阪)研究所に入り、同15年赤松麟作に師事。昭和3年には岡田三郎助の研究所に入り、また7年小林萬吾に師事する。戦後日本画に転じ、22年水上泰生に学び、26年より野田九浦に師事、日本画院に入会する。以後同会に出品し40年第25回日本画院展で記念賞を受賞した。56年11月新宿三越で「押田翠雨日本画展」を開催、6曲1隻の屏風「孝女白菊」(東京都近代文学博物館)を出品する。これは絵の上に「孝女白菊詩」全文を書いたものであったが、明治21年歌人落合直文が発表した長編の新体詩がよく知られる同詩の原作が、父井上哲次郎であることを示し、話題となった。

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