山根有三

読み:やまねゆうぞう  美術史家で東京大学名誉教授、群馬県立女子大学名誉教授の山根有三は5月22日午後2時28分、敗血症のため死去した。享年82。山根は1919(大正8)年2月27日、大阪府に生まれた。父は花道家の山根廣治(号翠道)、母は百合子。1940(昭和15)年3月第三高等学校文科甲類卒業、同年4月東京帝国大学文学部美学美術史学科入学。42年9月同学科を繰上げ卒業、同年10月同大学大学院入学。44年4月恩賜京都博物館(現京都国立博物館)に工芸担当の鑑査員として勤務。同年6月教育召集により神戸の高射砲中隊に入営。45年9月除隊して恩賜京都博物館に復職。51年10月神戸大学文理学部助教授、55年7月東京大学文学部助教授、69年5月同教授、79年3月定年退官。翌80年4月群馬県立女子大学教授、85年3月退職。この間、61年4月より66年3月まで文化財保護委員会事務局美術工芸課調査員を併任、68年5月より69年12月まで学術審議会専門委員、76年7月より86年5月まで文化財保護審議会専門委員、86年6月より1994(平成6)年6月まで文化財保護審議会委員、90年4月より99年4月まで『国華』主幹などを歴任した。84年4月より出光美術館理事、99年4月より『国華』名誉主幹を務めていた。99年に朝日賞を受賞、00年に文化功労者に選ばれた。戦後、恩賜京都博物館に復職した山根は46年に絵画担当の鑑査員になると智積院障壁画の研究を始め、49年に発足したばかりの美術史学会の関西支部例会で等伯研究の成果を発表。同学会誌『美術史』創刊号(50年)に掲載された「等伯研究序説」が出世作となった。しかし、38年に土居次義が唱えた「等伯信春同人説」(それまで等伯の子久蔵と同一人と考えられていた信春を等伯の前身とする新説)が戦後の学界に受け入れられるようになると、自らの鑑識眼と様式的判断から同人説に納得できなかった山根は等伯研究を中断し、宗達光琳研究に転じた。54年4月から東京大学史料編纂所に1ヶ年の内地留学を行い、『中院通村日記』『二條綱平公記』など未刊の古記録から宗達光琳関係の史料を見出した。58年11月に開催された「生誕三百年記念光琳展」(日本経済新聞社主催、於東京日本橋白木屋百貨店)では田中一松とともに作品の調査と選定に当たり、同展を機に刊行された田中一松編『光琳』(日本経済新聞社 1959年)に「光琳年譜について」「落款と印章」を発表した。続いて61年5~6月に開催された「俵屋宗達展」(日本経済新聞社主催、於東京日本橋高島屋)では自ら作品の選定に当たり、研究成果を『宗達』(日本経済新聞社 1962年)にまとめた。また同年、55年以来取り組んできた『小西家旧蔵光琳関係資料とその研究-資料』(中央公論美術出版 1962年)を刊行。『桃山の風俗画』(日本の美術17巻 平凡社 1967年)では、それまで町絵師の手になる初期肉筆浮世絵として評価されていた慶長から寛永年間の風俗画の優品を狩野派主流の作とする見解を示し、以後定説化された。編集に携わった『障壁画全集』(全10巻 美術出版社 1966~72年)では、障壁画を単なる大画面絵画とせず、建築との関係を重視した障壁画の総合的な共同研究を提唱し、同全集『南禅寺本坊』(1968年)によって自ら実践した。また当時一世を風靡した『原色日本の美術』(全30巻 小学館 1966~72年)の企画に加わり、『宗達と光琳』(第14巻 1969年)を著した。75年には琳派研究会を組織して同年6月から1ヶ月に及ぶ米国調査を敢行。成果を『琳派絵画全集』(全5巻 日本経済新聞社 1977~80年)にまとめた。また、美術雑誌『国華』の編集委員として89年3~5月の「室町時代の屏風絵―『国華』創刊100年記念特別展」(於東京国立博物館)を成功させ、「国華賞」の創設(1989年)に尽力した。90年に主幹に就くと、遅れがちだった同誌の刊行を軌道に乗せるなど、『国華』の経営改善に当たった。94年より『山根有三著作集』(全7巻 中央公論美術出版 ~1998年)を刊行。晩年は長谷川派の研究に復帰し、著作集第6巻『桃山絵画研究』(98年)に新稿「等伯研究―信春時代を含む等伯の画風展開」を書下ろしたほか、長谷川派についての論考を相次いで発表し、それまで埋もれていた等秀、等学らの画跡を見出した。01年の「狩野興以の法橋時代の画風について―名古屋城・二条城障壁画筆者の再検討を背景に」(『国華』1264)号)が絶筆となった。桃山時代を中心とした近世絵画史と、とりわけ琳派の研究に大きな成果をあげた山根の学風は、個々の作品に対する直観を重んじる一方で、史料の博捜と綿密な読解による裏付けを欠かさず、互いに相容れにくい美的直観と客観的実証とを両立させるところに特色があり、無味乾燥な様式論とは無縁な、人間味ある議論を展開して魅力があった。また、長い教壇生活を通じて数多くの研究者を育てた。山根の年譜と著作については、『山根有三先生年譜・著作目録(抄)』(東京大学文学部美術史研究室、1989年および98年)、『山根有三年譜・著作目録(抄)』(山根かほる 2001年)の3冊の目録がある。履歴については、自ら記した「わが美術史学青春記」(山根有三先生古稀記念会編『日本絵画史の研究』吉川弘文館 1989年)と『私の履歴書 日経版 決定本』(小学館スクウェア 2001年)がある。

橋本興家

木版画家で日本版画協会理事長をつとめた橋本興家は8月18日午前10時14分、脳こうそくのため埼玉県所沢市の病院で死去した。享年93。明治32(1899)年10月4日、鳥取県八頭に生まれる。大正9(1920)年鳥取県師範学校を卒業し、小学校訓導となる。同10年東京美術学校師範科に入学。同13年同校を卒業して富山県立女子師範学校及び併設されていた同県立高女の教論となる。同14年11月、東京府立第一高女(現 都立白鴎高校)教諭となって上京し、昭和31年に退職するまで同校で教鞭をとった。一方で、版画制作を続け、昭和12年第12回国画会展に「名古屋城」「大坂城」で初入選。また、同年第6回日本版画協会展にも出品し、以後両展に出品を続ける。同13年第2回新文展に「古城ろの門」で初入選。同14年第3回新文展に「古城早春」を、同15年紀元2600年奉祝展に「古城清秋」、第15回国画会展に「二の丸附近」を、同16年第4回新文展に「夏景名城」、第16回国画会展に「春の城」、同18年第6回新文展に「古城松山」を出品。同19年画文集『日本の城』(文・岸田日出刀、加藤版画研究所刊)を刊行する。戦後は同21年春の第1回日展に「牡丹」、同年秋の第2回日展に「アルプスと城」を出品するが、以後官展への出品はない。国画会展へは同21年同会が戦後に再開した当初から再び出品を始める。こ間の同21年版画集『古城十景』(加藤版画研究所刊)を刊行。同20年代後半は、東京都教育委員会の公立学校使用教科書採択に関する専門委員、文部省の教材等調査研究委員などで教育関係の委員、調査員を数多くつとめる。同31、33、35、38年に東京・日本橋三越で個展を開いたほか、同32年の第1回東京国際版画ビエンナーレ展に姫路城をモティーフとした「菱の門」を出品し、以後35、37年の同展にも出品。同36年ローマ・日本現代版画展、同37年ルガノ国際版画ビエンナーレ展、同39年ストックホルム日本現代版画展にも出品し、国際的にも知られるところとなった。同49年より54年まで日本版画協会理事長をつとめる。同62年愛媛県立美術館に代表作75点を寄贈し、これを記念して展覧会を開催、同年鳥取県立博物館にも代表作88点を寄贈して記念展を開いた。翌63年には鳥取県堺港市に代表作199点を寄贈している。画業のはじめから日本の古城を好んでモティーフとし、伝統的な木版画の流れに新風を吹き込んだとして注目された。上記以外の画集に『日本の名城版画集』(昭和37年 日本城郭協会刊)、『日本の城』(同53年 講談社)などがある。

持丸一夫

東京国立文化財研究所美術部研究員持丸一夫は、昭和29年3月18日、心臓機能不全症による脳栓塞のため、大田区田園調布の中央病院で死去した。享年34歳。大正8年7月7日横浜に生まれ、静岡高等学校を経て、昭和17年9月東京大学文学部美学美術史学科卒業、同年10月美術研究所内の東洋美術国際研究会に入つて、英文日本古美術案内の編集に従事、兼ねて美術研究所嘱託として目本美術の研究にあたつた。19年3月応召、中支にて終戦を迎え、苦難の俘虜生活を約1年同地に送つた。21年5月帰還し、しばらく、旧職の東洋美術国際研究会の残務整理にあたつていたが、22年6月美術研究所に入つた。研究所に於ては、24年6月文部技官となり、大学の卒業論文(論文は司馬江漢の研究)以来手がけてきた、近世絵画史を専攻し、特に、桃山時代の障壁画の研究に力をそそいだ。その間、組合運動に、また、研究所の事務的な面にも仲々の手腕を振つた。また、研究には、きわめて実証的な方法をとつたが、啓蒙的な著述にも力をそそぎ、小山書店発行の「狩野永徳」や吉川弘文館発行の「日本美術史要説」などがある。論文目録昭和23年 狩野宗秀に就いて 美術研究147号昭和24年 豊臣秀吉画像と筆者狩野光信に就いて 美術研究153号昭和25年 犬追物図攷 国華693号昭和25年 狩野派 世界美術全集、絵画「日本」Ⅲ昭和25年 建仁寺障壁画 美術研究157号昭和26年 宗達と現代美術 三彩53号昭和26年 宗達筆舞楽図屏風解説 美術研究162号昭和26年 金碧障壁画の代表作智積院の襖絵について ミユーゼアム9号昭和27年 名古屋城障壁画筆者考 美術研究164号昭和27年 桃山時代の極彩色障壁画 ミユーゼアム10号昭和27年 洛中洛外図屏風 ミユーゼアム12号昭和28年 名古屋城本丸御殿障壁画 ミユーゼアム22号昭和28年 石山寺縁起と慕帰絵詞に現われた障壁画 美術研究169号昭和28年 法然絵伝に現われた障壁画 美術研究171号昭和29年 桃山時代の絵画 ミユーゼアム34号

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