グレーの自炊物語 (「光風」明治三十八年九月) 
時は明治三十八年四月の末つ方、桜の花は既に散り尽して、風暖かき芝生に紅白色々の草花艶を競ふ黒田清輝氏の画室で、グレー(Grez sur Loing)の自炊物語が語られた。(小林鍾吉)

 グレーの話しかね、なあに別段話す程の事も無いが、まあ然しグレーは人の能く知つて居る処で、ロアン川と云ふ川岸の静かな小さな村なのさ。左様巴里からは何の位有るか知らんが、汽車で行つて二時間位で行ける処だから、大して遠くは無いね、大略二十里位有るだらう。
 自炊を行つたのは其の時の事さ。何年だつたか、日本に帰つて来たのが二十六年だから、二十三年から五年に跨つて二年計りグレーに居た事になるのだ。先づ自炊を行つた家の様子から話すと、其が物置の二階でね、下は土間になつて居て漸と六畳敷位なものだよ、二階も下も六畳さ。其で二階は板敷に寝台に洗濯物などを入れる置戸棚と洗面台と椅子が二つ有る計りで、下の土間は半分台所になつて居て窓が一つ有つて流しの傍に竃が有るのさ、其の竃が昔風で大き過ぎて使用へないので、其の竃の前に小さな鉄の竃が別に据てあつた。部屋の図は斯様な具合で其から前が直ぐ往来になつて居て、右が物置の持主の家で、往来の向が牛小屋だつた。二階は道路に面した所に一つ窓が有る丈で、其が南向だつたと思ふ。二階は今話した様に狭い処であつたから寝たり本を読んだりする丈で、下の土間の奥の方が台所兼画室で、入口の方で大抵トワルなんか張つたが此所には又薪にする材木を積で置いた、其で薪も一車買ふと非常に安いので、其を買て積で置て、長さ三尺位有るのを鋸で切て斧で割るのだが、其が又運動になるので自分でやつたよ、而してまあ半分百姓の様な画家の様な可笑しな生活をやつたんだ。
 然し最初から自炊生活をしたのでは無く、グレーに行つた時は初めホテルに居た。其から暫時して此の物置を借りてから、住居は此所にして置て、食事丈ホテルに食ひに行つて居たが、長く居るとなると中々ホテルの食事をやつてゐては金が非常に高いのだね先づホテルの一日の代が五フランさ、其が一カ月になると百五十フラン費る訳さ、勿論三度共食事をやる代も混じて居るさ。所で今云ふ物置小屋は家賃が一カ月二十フランだから、食事丈ホテルに食ひに行つても、ホテルに居て食を食ふのよりは安く済むんだね、其に朝飯を止めて昼と夜の二食丈しか食らないから、昼がまあ一フラン五十サンチーム、夜が二フランで一日が三フラン五十サンチームで済むから五フランの時より安いさね、然し少しの倹約に止まるのだから、如何しても最う少し如何にかしたいと思つた訳さ、其上宿屋と云ふものは張四季三で毎日居る人間が変て其度に知合が新になる、話がまじめでつまらないから、結局自炊の方が余程気楽なんだね。
 其から彼の辺でモデルを頼むと、一時間が七十五サンチームで十五銭位なものだが、午前も描き午後も描けばまあ四フランから五フラン位は大丈夫取られる、併し毎日必らずモデルの写生をやつた訳ではない、曇つた時にはモデルを止めて風景を描きに出たり、好い天気の時にモデルを描いたりしたよ。だが学費が一杯で中々苦いのだ。勿論田舎に居るのだから、着物には金がかゝらないが、ホテルに居てモデルを使つたりして居ると、今云ふ様な次第で倹約の仕様が無いから、此の上倹るのはホテルの飯を安く食ふより外は方法が無いのだ、然しホテルに居て写生に出たり何かして居る中に、暫時して村中の者と懇意になつた。殊に村の汚い姿の人間と懇意になつたのさ。  其の中でもプランシュロンと云ふ男で、寺の鐘撞をして居る年配五十位の爺さんと懇意になつたのさ。此の男の内職に時計修繕をしてゐるので、其が独者で汚ない家で自炊をやつてゐるのだが、其でまあ其男と相談をして第一に物置小屋から其の男の家に食事をしに行く事に定めたのさ。だが、此の男の所では食事と云つても飯の材料となるものがジヤガ薯に豚の肉を煮込んだものが普通で、汚ない事は随分汚ない。然しホテルの者も私が此男の所で飯を食ふのを知つても面と向て悪くも言はなかつたよ。
 其様な具合でホテルの人間にも別段遠慮も入らなかつたし汚ないことなんぞは無論何とも思はなかつたが、モデルに頼む娘子なぞは能く彼の汚ない所で飯が食べたものだと云つて笑ふので、一週間計りで遂に止めて了つたよ。処で近所の婆さん達が色々世話して呉れて、自分で家で自炊したら好からうと云ふので、遂に決行する事になつた、其が丁度二十三年の冬だつた。
 近所の者の世話で、まあ毎日食ふ丈のものを作へて置て貰て、写生から帰て来ては直ぐ食ふ事が出来たが、無論ホテルよりは安い、其は安いには相違ないが、兎も角も毎日肉を食ふので、其程安くもならなかつたのさ。ホテルなら食事に着くのに手位洗つて皆と一処にやらなければならないし、女の客でも居れば少しはお世辞でも云はなけりやあならないから、面倒なんだね、自炊は其所は安心なものさ、写生から帰つて絵具で汚れたまゝの手で、誰に遠慮する人も無しにやれるからね。
 食事の方は外国人だつて何も毎日御馳走と云ふ訳は無いさ、然し昼と晩向では大抵肉を食ふね、肉も豚で無ければ牛、牛でなければ羊と云ふ具合で大抵一品さ。
 其様な具合で肉がなければ生活が出来ないのだよ、私も初めは其の肉食生活をやつたんだが、其中に肉を食ふのが一週間に二度位になり、遂に一度になつたりして、百姓達の食はぬ物迄食ふ様な事をやつたのさ。其は近所の婆さん達でも其様毎日炊事をやつて貰ひにくいので其の村から市に買物に行く人間に買物を頼むので、其市は一週間間に二度立つのだ、道は二里位も有つたらうよ、米も其村では売て居ないし、野菜でも何でも売て居ないのだ、何でも市に買ひに行くのさ。近辺は麦畑計りだからね。
 其様いふ風で、村で間に合ふのは豚計りだが、其とても市に持出す為めに飼て有るので持出す前か後で無ければ無い時が有るのだ。
 其で市から人参を買て来て貰つて、豚の皮を買ては小さく切つて人参と煮るのだね。豚の皮は只毛を取つた丈のものさ、之は人間の食ふものぢやあ無いのだよ、其は其の皮を煮詰めてゼラチンを作る為めに売つてるので、目方に懸けて二銭か三銭位で一片売て居るのさ、まあ其を菜にして米の飯を買ふのだね、其も米が無くなると麺麭を食つたのだ、何故と云ふ事も無いが、米の方が腹が張るから米を食ふのさ、米も小さな袋に這入つて居て一袋何程と云ふので売て居るのだ、其からまあ私が豚の皮を食ふのを見て近辺の者が皆な驚いて了つたのさ、而して其様に始終人参計り食つて居ては身体の為めに悪いと云つて呉れる仕末なんだが、可笑しい事には其で一度大失敗をして、只つた一度だが、大評判になつた事が有つたのさ。
 なあに其は友人で巴里に居る曾我と云ふのがわざわざ巴里から汽車に乗て遊びに来たもんだね、所が運悪く食事をやつてる時に来たのだよ、勿論前云ふ様な具合だから、豚の皮と人参の煮たのが有れば未だしもだが、生憎最う豚の皮と材料の人参を食ひ尽した時で煮詰めた時の汁の残りに米を入れて煮たのだね、其を菜にして白い米の飯を食つてた訳さ。曾我も飯を菜にして飯を食ふのには閉口して、何か探して来やうと云ふので、野に直様出て行つたが、近所は麦ばかりで外に何にも無いのさ、然し持て帰つたのを見ると大きな蕪で、其は人間は決して食はない、必竟牛に食はせる飼料で、牛に食はせるものだからまあ之丈は沢山有つたのさ。
 其から食へるか食へないか解らないのだが、兎に角食つて見やうと云ふので、水で洗て切て見たが非常に硬い、然し硬い位の事は平気だから、其を何でも塩で揉で見たが、之が硬いから好くもめないのだね、それから好い加減にして食ふと云ふのでやつて見ると、泥臭くつて兎ても食へたものぢやあ無いのさ。其で曾我は仕方なしにホテルに飯を食ひに行つたがね、曾我が巴里に帰ると此の一条を巴里の友人に吹聴して、黒田はグレーで飯を菜にして飯を食つて居ると云つたので、其が一時評判になつて弱つたよ、だが此様な事は度々有つた訳ぢやあ無いさ、つまり金に差支へた時丈だつたがね。
 其から最う一つ閉口したのは便所が無いので困つたのだね。一体他の人よりは多い方だから、成る可く我慢して居るのだが、其でも一日に一度は是非共行くよ、其で昼間は近所の便所を借りるけれども、夜は起して借りると云ふのも気の毒で堪らないから大きに困つたのさ。其で気が付く時は画を描きに郊外に出た時、薮か森に踞むのだが、モデルを使つて家で画を描いた時なぞは、昼間便所に行かないので、夜出かける、其はまあ所選ばず散歩を兼ねて五六町位先の森まで行く事が有るよ、只雨と雪の日は非常に困つたので、傘をさして居なければならない、之は最う毎日毎日の事だから、実に閉口したね。
 あゝ私の居た家かね、其は和田がグレーで描いた橋のある黄いろい木の有る画が有つたらう、西洋銀杏(プープリエー)と日本で云つてる木肌の黄ばむだ木さ、彼の橋を真直に上つた処の右側が、例の物置小屋なんだね、然し其様な風にして生活して居たが、村では紳士だつたのさ、可笑い様だね。
 其の時居た人間で、今日迄グレーで画を描いてる人間も有るよ、まあ外国人は随分居たさ、然しグレーの人間から見ると、外の亜米利加人や英人に比べると、私はまあ一番言葉が不自由でなかつたもんだから、村の者とも懇意になり易かつたのさ。其で一方には村の候爵と云ふ、日本で云へば御領主様だね、其の人へ巴里の或人から紹介されて居たものだから夜食に招待される事なんか有るのさ、其だから一方では寺の鐘撞と交際して居ても、大方彼の男は物好で彼様な事をして居るので、本国へ帰へつたら万更只の百姓でも有るまい位に考へて居たものと見えて、まあ尊敬された様な具合だつた。其でマルキーの屋敷は随分大きいね、毎日人足の十四、五人も這入つて居る位で、日本の宮様位の生活をして居て、娘が二人居たが、之が又奇麗なんだ、時々馬車に乗て近所を乗り廻して居たがね。又僕が或時其のマルキーの晩餐で失敗をやつた事が有つたのさ、然し其の失策は又此次話す事にしやう。
 まあグレーの生活は此様なものさ、だがまあ一番気持の好かつたのは、何様な事かと云ふと、四季其々趣が有て面白いのだね。
 其でホテルが此のグレーに二軒有つたので、其が二つとも川岸なんだ、一つはシユビーヨンと云ふのだね、私は此の方に長く居たのさ、此家には後に和田も浅井も泊つて居たのだ。
 最う一つの方は、私の居た時分につぶれて、今では全く個人の所有だ相だが、初めグレーに行つた時は、其の方に居たのだ。先づ日本で云へばつぶれたホテルの方は当世風のホテルで、今残つてる方が旅篭屋風の家なんだ。其の当世風の方は無論庭も広いし、村の若い者なぞが来て、酒を飲むだり玉突にやつて来る事が無いのだ。
 過去つた事を静かに考へて見ると、グレーの四季は四季共に好いので、何時の時候が一番好いかと云はれると、一寸返事に困るのだね、春は空が晴れて、麦の芽が一面に出た野原の青い中に、林檎の美しい花が咲いて居るのも好いし、夏は麦が黄いのに、紅い虞美人草(コクリコ)と、藍色の矢車の花とが交つて一面に咲乱れて居るし、月の色から云ても、白い乾いた道路に蒼い様な影が有るのなぞは、一寸日本では見られない景色だね。
 其から川向ふに牧場が有るが、之は牛馬が始終居ると云ふ訳では無いので、朝早く女が各一匹づつ牛を其川岸の牧場に連て行て、牛の角と足を繩で縛つて置て牧草を食はせるのさ、其の間女はいづれも編物をやつてゐるが、九時か十時になると牛の繩を解いて、川の水を思ふ様飲まして連て小屋に帰るのだ、彼のミレーの図に能く有るのが、今でもミレーの絵を見ると彼の絵を通して一種面白い感が有るね。
 絵でも描きに出た時は、疲れて草の上に横になると日本の様に草の葉が硬くなくて柔かで、蚊や蟻の類が居ず、草に香気の有る花が咲いてゐて、寝て居る顔の上を風が吹くと、何とも謂はれない好い香がするのだね。重に蜜の様な匂ひだよ。其は仏国のドラマルチヌ(文学者)の書いたタイユール・ド・ピエール(石切)と云ふ本の中に写して有る風景の説明が、大にグレーを連想させる様な処が有るよ。
 秋は又秋で、西洋銀杏の黄葉が、僅かな間だが非常に美しい、日本の紅い紅葉より美いね。冬は日本で一寸得られない所が有るよ、寒さも幾分か強いが、其も酷く悪感を起す様なのぢやあ無いね、一番好いのは木の靴(サボ)を穿いて、ストーブに暖つて、何とも云へぬ寂しい感を持て書物を読む、之が実に好い気持だね、友達が来れば之と話をするのも好いし、中々面白い事もあるよ、雪も余り降らないが、降つたのは長く保て消えない様だね。
 其から私がグレーに居た中で一番好かつたのは、一寸殿様の様な生活をやつた事が有る、其は例のつぶれたホテルの事なんだが、何様して其がつぶれたかと云ふと、宿屋の所有主の婆さんが死んだんだね、其の死ぬ前に私の隣家の娘がね、娘と云つても未亡人で、年は二十四、五だつたと思ふよ。其ホテルの料理番と婆さんの世話を兼ねて行て居たのさ。所で婆さん死で了つたので、営業は止めて暫時空屋になつて居たのだが、其の間未亡人は其の宿屋の留守番をして、たつた一人大きい家に住つて居たのだね、私は元来其家の持主とも懇意で有つたから、其の縁で其明家に出這入する事が自由で其所の庭で画を描く事が出来た訳なんだ。其の持主と云ふのは死だ婆さんの甥で、モーリーと云ふ男さ、之が巴里で郵便の古切手を商買にして居たので、余程以前から此男とは知つて居た。
 其で毎日其のホテルに絵を描きに行て、今の女に料理して貰つて、食事をした時は、恰で殿様だつたよ。家は広いし、庭先に川は有るし、花は有るし、台所の傍の小さい食堂に奇麗な白い布を敷いたのに、女が一品か二品拵らへて呉れる料理だが、之が甘かつたね、何しろ豚の皮と人参の煮込のやうなものとは違ふからね。之が丁度二十四年の夏の末だつた。
 其家の庭で描いたのは、重に芥子の花だつた。其頃岩村が尋ねて来たよ、久米は其年は仏国の西北に方るブレハと云ふ島に行て居た。其で私も其の前ブレハに行つた事が有るので、久米の所に手紙をやつて、羊の肉を送つて貰つたよ。
 一体ブレハは羊の肉が甘い所で、プレサレー(塩気の牧場の肉)と云ふ肉だ、塩気の有る草を食ふ為か、肉が馬鹿に甘いのだね。其で今此様いふ愉快な殿様の様な生活をして居る時に、プレサレーを食つたら何様に好いだらうと思つて、久米に手紙を出してわざわざ送つて貰つて食つたが、甘かつたよ、丁度半匹計り送つて呉れたがね。
 ブレハの島に居た時も色々面白い事が有つたよ、まあグレー時代の話しは此様なものさ、ブレハの話は又更めてやらうよ。

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